友禅師 惺 〜結婚式〜01 制作依頼

novel-長編-
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展示会

昭和三十年、日本橋三押デパート催物会場『華麗なる東京友禅の世界~現代作家作品展』にて。
「素晴らしいわ。やはり印刷の着物とは『格』が違いますわね」
「化繊のペラペラの生地と正絹の重い生地と、見る人が見ずとも風に吹かれれば安いか高いかくらいは直ぐに判るがな」
展示場のあるフロアでは、展示場と他のブランド店との境をあえて設けず入り口と思しき場所に看板が一つ設置されているだけで、他の商品目当て、又はウィンドウショッピング中の客の目線から、誰でも目に入るようこれ見よがしに着物が展示されていた。ただし、その扱いに庶民的な雰囲気は無く、まるで美術展の絵を飾るよう慎重かつ丁寧に扱われている。例えば中央に設置されたガラスボックスの中に悠然と吊るされた婚礼用の色留袖は、前面と背面にくまなく描かれた柄を、手に触れることなく何処からでも見られる様に展示され、壁面を利用して作られたガラスボックスの中に展示された着物ですら、背面こそ見えないものの、次の着物との間に空間を設けて余韻を残さないよう工夫されている。絵画の如く作家名とともに飾られている着物の内、先程から真ん中にある1番立派なガラスケース内を覗き、感想を述べている中年男女の会話が耳に入ったのか、黒スーツを着た店員とおぼしき男が、中年男女に近寄る口を挟んで挨拶をする。
「流石お目が高くていらっしゃいます。如何でしょうか、本物の東京友禅は」
「これ、全部手描きなんでしょう?」
「左様でございます」
にっこりと店員は微笑むと、展示会入り口付近で、一人作業を行う職人の近くへ中年男女2人を誘導する。
「こちらで実演が行われていますように、正絹の白生地に下絵を直接描き入れ、線にそって糊を引き布の色滲みを止めたのち色を塗る。近頃は下絵を印刷で行い、図案のみデザイナーの作家に依頼して、デザイナーが考案した元絵を職人が手描きで写す、または機械で印刷し、糊引きと色付けだけ手作業で行った着物を「手描き友禅」と称し販売している所もあるようですが、今回の「現代作家作品展」の作品展に出品されている作家様方は、全てデザインから下絵、色付けまで一貫した一人の作家の手仕事で何か月もの時間を掛けて制作されたもの、本家本元の正真正銘の一品もの。洋装で言えばオートクチュールです」
「ほ~ほ~」
店員の説明に分かったような分からないような返事をする中年男性の横を、ブランド店と展示会の境目沿いを歩く初老の紳士と若い女性がかすめて通る。ウィンドウショッピングにしては小奇麗な装いの紳士と若い女性の内、若い女性が展示会の片隅のある着物の前で立ち止まる。すると、女性が自分の後ろを付いてこない事に気が付いた紳士は、後ろを振り向き、立ち止まったままの若い女性に声を掛ける。
「どうした、真弓」
女性は紳士の声が届いているのか?自分を呼ぶ声には反応を示さず、ガラスの中に展示された着物に目を向けたまま、体もガラスに対して正面に向くと、ただ着物を見つめていた。
「真弓?」
再び紳士は若い女性に声を掛けた。しかし女性は声の存在を知ってか知らずか目の前の着物をただ見つめ続けている。その様子が目の端に入った黒スーツの店員は、チャンスとばかりに少し離れた場所の若い女性と紳士にも届くよう、声を上げて解説した。
「友禅と言うと、皆様「京友禅」か「加賀友禅」を思い浮かべる方が多くいらっしゃいますが、東京では何と言っても「東京友禅」です。 京都、加賀に比べて知名度は高くはありませんが、美術的価値や技術が劣っていると言う事では無く、東京と言う土地柄でしょうか、自由な作風を好まれ、現代風にアレンジした作品を作る作家様が多く、吉祥紋様などの古典に限らず、お客様の希望に沿った幅広いニーズにお答えする事が可能でございます」
そんな店員の思惑に少々気分を害した中年女性は作家名の下の値段に注目する。
「奥田彩雲作、あら意外に安いわね、200万?これなら1枚…」
自分達のステイタスを誇示するが如く、安いと言いたげに値踏みする。しかし
「お客様、申し訳ございませんが今一度ご確認を…」
店員は小声で臆することなく進言する。
「桁が一桁…」

「1,200万!!」

製作依頼

「友禅っていうのは元々江戸時代に、友禅斎って言う名前で扇に絵を描いてた人が、ある呉服屋から『着物の柄のデザインをしてくれ』って頼まれて、友禅斎が考えた柄?というか絵をあしらった着物が大ヒットしたのが始まりと言われている。
つまり友禅って言う名前は、この制作工程技術を有名にした『デザイナー友禅斎』の名前に因んだもので、実際友禅斎自身が着物に絵を描き入れた訳では無くても、この技法で制作された着物が「友禅」と言われているものだ。
ゆえに友禅とは着物に柄をつける為の技法、絵付けをする為の「技法」であって日本画や油絵のように作家自身が直に描いたものやブランド毎に制作された品物にブランド名が付く訳でもなく、友禅斎が直に絵を描いた着物では無く、友禅斎がデザインした絵自体を指すものでもない。」

「だから何?」

「何でも描けるゆえ何を描いてもいい。人、風景、イメージ。自分が身に着たいと思うもの、自分を際立たせるもの。同化したいと思うもの。つまり着る人が満足する事が柄を描く目的で意味を理解していれば判る。デザイナーの友禅斎や、彼に絵を依頼した呉服屋の精神しかり…」
惺はそこまでウンチクを垂れると、先程、目の前にいる高貴から突っ返されたシャツを広げて見せた。
「このシャツはその流れに通じるものがある!」
東京渋谷区幡ヶ谷。とあるアパート一階にある六畳、四畳半の一室にて、惺はランニングシャツとパンツ一丁のまま、玄関と窓を全開に、今年で小学5年生になる弟子の高貴を相手に持論を展開している真最中である。
学校から帰ったばかりで、まだランドセルすら下ろしていない高貴は、真夏の暑さと惺の御託にウンザリしている。惺本人は高貴に対し見事な論理を展開したつもりでも、その割にシャツは惺から渡された時点で袋も無く、タグも値札も付いていない。
「なに、このカッコ悪いシャツ」
高貴はシャツを改めて馬鹿にした。それもそのはず、高貴は以前このシャツを学校で見た覚えがあるからだ。その上惺が御託を並べる理由も大方検討がついている。しかし惺は呆れ顔をした高貴に構わず
「空間の使い方が大胆だ、俺には思い付かない」
などと尤もらしい事を言う。シャツのど真ん中にドーンと漫画のキャラクターの顔のみが印刷されたTシャツに、空間とか構図とかそう言う問題じゃないだろう、と高貴は心の中で反論する。が、流石に弟子が師匠に対してそこまでは言えず、そもそも高貴が惺にシャツを突っ返した理由はそれじゃ無い。
「これタケのお下がりだろ。それにこの絵、俺嫌いだし」
とにかくランドセルを背中から下ろすと、扇風機の前を占領した高貴は、絶対に敵わないと判っている部分を無視して一般論で対抗する手を考える。嗜好は誰にも押し付ける事が出来ない、と惺は日頃から高貴に説いていた。なら惺が嗜好を尊重するならそちらから攻めてみる事にした。しかし
「そうか?人をここまで簡略化して、なおかつ個性を持たせて、誰が描いてもそれと判る様に記号にする、なかなか出来る事じゃない」
と来た。高貴は惺のそういう、あらゆる種別の『絵』に対して、偏見や差別の無い公正な目を心から尊敬している。でも今回の、このシャツに関しては、絶対に純粋な絵描きとしての意見で無く、何か良からぬ事情が含まれている事に気が付いている為、このまま素直に退く訳にはいかない。
「そう言う問題かよ。簡略化なんてゆーのは多かれ少なかれ漫画は全部当てはまるだろ? それにこの漫画全然人気なかったし。タケも学校に着て来た時、皆に『だっせー』ってからかわれてさ、結局その1回しか学校に着て来なかったんだぞ」
嗜好の他に半ば感情論も付け足し始めた高貴に、惺はここぞとばかりにニヤリと笑って言い放つ。
「じゃあ、おまえはこれを着て学校に行ってタケに『惺が構図が凄いって言ってたぞ』って言ってやれ。絵の事なんてわかりゃしない連中はそれだけでシャツに対する見る目が変わる」
「は…?」
自信満々の惺に呆れる高貴。確かに惺は絵関係の職人である事を、良くも悪くも近所中に知られている。ただし、それだけで近所中の誰もが尊敬する作家かどうかは別なのに、単純に自分がプロだと言うだけで、絵に関しては誰からも尊敬されているであろうと信じきれている。この誇大妄想な根拠のない自信は一体どこから湧いて出て来るのか。いくら師匠とはいえ
「…どれだけ自信家なんだか」
その高貴の言葉に反応したのは
「惺は高貴にそのシャツ着させたいだけだろ」
玄関で座り込む、この暑さの中でスーツにハンチング帽の男だった。
「阿久津さん!」
「ったく何だよ 惺、そのナリは」
笑顔になる高貴。と惺は高貴の言葉より露骨に嫌な顔をした。
阿久津は友禅作家と依頼人、仕立屋などの友禅制作における各種職人間の仲立ちを勤める営業兼仲介屋である。本日の打ち合わせに際し、なんでも依頼者曰く『惺が作った着物でないと結婚しない』と条件を付けてきた為、作家の逃亡防止の為わざわざ迎えに来たとの事。普通の作家であれば、そこまで描いて欲しいのか!などと浮かれてしまう所だが、今回の場合は事情が異なり、惺が機嫌が悪いのもその為だった。
「いいから早く着替えろ、依頼人との打ち合わせに遅れるぞ」
阿久津に即され、惺はのろのろと定番のランニングシャツから一張羅の羽織に着替え初める。その間阿久津は玄関先に座ったまま、先日あったシャツを手渡される事情について語り始めた。
「この前、渋谷からの帰りに鬼島さんとバッタリ会って、俺は別れたけど惺と鬼島さんは一緒に帰ったんだそうだ。その時、惺のやつ小銭たりねぇとか言って、鬼島さんにバス代立て替えて貰ったんだと」
続けて惺が嫌々足袋を履きながら話しだす。
「その後鬼島さんが待っててって言うから家の前で待ってると、奥様が出て来て『こうちゃんに』って、このシャツを渡されたんだよ」
「なんで?」
高貴は阿久津のお土産のメロンアイスを食べながら、理解できずにきょとんとすると
「バス代も払えない貧乏人だと思われたんだろ」
阿久津は歯に衣を着せずに遠慮なく指摘する。すると惺は恥ずかしげもなく
「その通り!」
事情を理解をされた事に満足し、満面の笑顔で同意した。
「喜んでんじゃねえ!」
ご機嫌な惺に高貴と阿久津は2人同時にツッコむ。しかし更に続けて
「タケから『高貴はいつも同じ服ばかり着ている』って聞いて、気の毒に思った鬼島さんの奥様が、タケが1回しか着ていない服を、わざわざ持ってきて好意で渡してくれたんだ。奥様の慈悲深い顔に『喜んで頂きます』って言っちゃった手前、一回でも着てくれないと俺が困る!」
その様は完全に開き直った確信犯であった。やっぱりウラがあったのか…、と高貴は惺の御託の理由を心の中で納得する。同じ服ばかり着ているのは事実だし、好意から差し出されたものに対してイチャモン付ける事などみっともない事は惺はしない。だったら最初からそう言えばいいのに、と思わなくも無いが、本当のところ惺はあのデザインに本当に関心して、自分の持論をただ聞いて欲しかっただけなのかもしれないとも思う。
身支度も済ませ、惺が阿久津と出掛けようとする際、高貴は惺に一声かける。
シャツを着れば学校で笑われるが、必ず守って欲しい事がある。
「シャツの事はわかったよ、でもバス代は鬼島さんにちゃんと返しとけよ」
惺は高貴の正義に対して困り顔で
「え~~…やっぱ返さないと駄目か?」
と、嘆かわしい返事をした。

打ち合わせ

目黒にある式場に着いたのは夕方16時を過ぎていた。依頼人は式場を見学した後打ち合わせを行いたいとの意向の為、この式場にある打ち合わせ用の会議室を予約したとの事だった。
「早川さん達はまだみたいだな、何なら先に会議室の方に行ってるか?」
昼間の電車はとにかく暑く、通勤ラッシュに比べたら幾らかマシでも阿久津は惺から借りた扇子を返して、脱いでいた上着を着直した。打ち合わせにはそれなりの身なりが必要な為、営業用の三つ揃いを着た阿久津と、これまた営業用に羽織着物を着た惺たちにとって寒いほどクーラーの効いた個室は有難い。
だが惺はそれ以上に、ロビーから見える庭の見事さに魅かれていた。日が暮れそうな気配は無いが、真昼の日差しに比べたら暑さは幾分マシになっている。
「ちょっと庭を見てくる」
そう言うと阿久津と別れて庭に出る為の場所を探す。今日は平日ではあるものの吉日の為か恐らく結婚式の参列者であろう人々がそこかしこに点在する。ドレス姿の女性にスーツの男性達。その中を縫うように、真っ白なドレスを着た女性と燕尾服を着た男性が現れた。小さな歓声と祝福に湧く笑顔たち。惺はその様子を横目で伺うと、見つけていた中庭へ続くドアから外に出た。
歴史ある式場…とは言っても、この庭の木々のほとんどは外部から取り寄せた植樹である。空襲で焼野原にされた後、僅かに残された建物を記録から再現したという。
(本当に、よくぞここまで再興出来たものだ…)と惺は思った。
人と争い、傷つける為でなく、復活の為に、希望の為に働くと言う思いがここまで再現させたのか、この庭を残したいと願う心が強かったのか。
ふと人の気配に気が付くと、ロビーにいたカップルとは別の組が、参列者を引き連れて歩いている。白のドレスが緑の中で輝いていた。
「…」
この式場だけでなく戦後のゼロからの再興は、新しい日本に生まれ変わる為に古き習慣をも見直しをさせた。時代と共に西洋化が進み、服装も着物から洋服に変わっていく。今では街中で着物を着る人を見かける事はほとんど無い。あるとすれば冠婚葬祭、その式場ですら今や男性はスーツ、女性のドレス、着物はレンタルが主流である。残そうとする者、受け継ぐ者がなければ時代から消えていくなら、自分はどうしたいんだろう?と惺は改めて考える。すると
「ドレスばっかりだなぁ」
阿久津がドレス一団をじろじろと観察しながら迎えに来た。職業柄人の着る服装が気になるのはお互い様だが、阿久津とは見ている視点が違うらしい。そもそも服装なんて言うものは市場価値、需要で変動するもので、始まりはたかだか江戸時代、着物がなくなる訳じゃなし…
「あと2、30年もすれば友禅師なんて職業は成り立たなくなっているかもしれないな」
洋装が蔓延る式場が気に入らない阿久津にそう言うと、諦めたように笑う惺。
「自分の仕事がなくなるかもしれないって言うのに、ヘラヘラして笑いやがって」
ただでさえ仕事が少ないのに、能天気な顔をして。
「で、交通費は?」
犬にお手をするよう出した手を、阿久津が瞬時ひっぱたく。
「俺が出すから大人しくしてろ!」
依頼人は既に会議室内で待機をしていた。阿久津と惺が部屋に入ると、依頼人を含む3人はゆっくりと立ち上がる。その内の女性を見るなり惺と阿久津は慄いた。着物を着用しているのはいい、だが色が…白である。
「皆さま、本日はお忙しい中をお越し頂きまして、誠に有難うございます」
こちらの様子に気付いてか、先方が間を置かずに話しを始めた。
「こ、こちらこそ先日はお世話になりました」
我に返った阿久津は、慌てて初老の紳士に挨拶をすると、紳士は阿久津の横の羽織りを着た青年に向き合い自己紹介を始めた。
「初めまして、私は早川兼造と申します。こちらは娘の真弓と、娘の婚約者の…」
「井荻辰己と申します」
まるで能面のような顔をした娘、真弓は動かない。井荻と名乗る男は、早川と真弓から一歩引き、後ろから丁寧に挨拶をする。
(完全な白ではなく象牙か?それとも電灯の色が着物に映り、象牙に見せているのか…)
惺はそんな3人に返事もせず、真弓の着物、特に色を凝視する。
(半襟の白と比べても色差がなく見える。生成りか象牙?照明の色が反射しているにしろ、今日はあえて『白』で来た、そう考えた方が正解か)
真弓の意図を図りかねながらも、少なくとも歓迎されていない旨を悟る惺。対して阿久津は
(惺に製作依頼を出すくらいだから、そのくらいの気骨はあるんだろう)
と、大方の予想は立てていた。だが依頼内容に負けず劣らず怪しい雰囲気を漂わせている真弓に対し、仏頂面をやめる気のない惺。職業柄「気難しい先生だ」と思われるのが関の山、としても
「こちらが先日の展示会にて「般若」を出品したデザイナー、伝統工芸士の…」
「斐川惺士郎と申します」
流石に挨拶をしようとしない惺を後ろ手でつねり強制的に喋らせる。が、相手方には悪いが惺にはこのまま不機嫌でいて貰う方が阿久津にとっては都合がいい。むしろ惺が上機嫌となり迂闊に喋る事で馬鹿がばれる方が余程困る。とにかく今日は確認する事だけ済ませて、とっとと話を終わらせよう、と阿久津は自分に念を押す。
全員席に着くと、依頼者の早川は、依頼するに至る経緯を説明しはじめた。
「阿久津さんには事前にお話させて頂いておりますので既にご存知の事と思われますが、先日三押デパートで行われていた東京友禅の展示会で、娘の真弓が先生の作品をお見かけしまして、来年春に予定している辰巳君との結婚式の際は、是非先生の描いた打掛で、と申しまして…展示会の主宰者様から阿久津さんの事をお伺いしまして、阿久津さんを通して先生にご連絡させて頂く運びとなりました」
「承知しております」
空かさず答える阿久津の後、一呼吸置いて
「阿久津には交渉事を全て任せておりますので」
惺は阿久津の立場を公的に早川に向かって肯定した。つまり阿久津が承知と言えば惺も同意したと同じであると。
その言葉を受けて、少し顔が緩む早川。
「ああ、そうなんですね、それは良かった。有難う御座います。実は阿久津さんから今回の依頼に対し『もしかすると無理かもしれない』と伺っておりましたので、いや、本当にお受け頂きまして心から感謝致します」
「!?」
惺が驚くと、そのリアクションを無視する阿久津。
(おい、まだ引き受けた訳じゃ…)と、惺の顔が引きつった。惺の微妙な反応に気がついた阿久津は
「依頼内容の大体の概要は、私から先生の方には十分お伝えてあります」
サラッっと話を進行させる。実は今回の話は阿久津も惺に引き受けさせたい理由がある。だがその前に、阿久津は早川に向けていた顔を、真の依頼者に向きなおして問いかけた。
「では本当にお話を進めてさせて頂いても宜しいのですか?真弓さん」
真弓は指名で質問をされても、相変わらず能面のような表情で否定も肯定もしない。そのまま時が過ぎ一言も話さない為、早川が声を掛けようとすると、阿久津は諦めて話し出す。
「かしこまりました…では今回の製作依頼の内容は婚礼用の色打掛の製作です。式は3月中旬との事で、ここまでは早川様より直接伺っておりますが、その後真弓様からお手紙で頂いた製作に関する要望は3つあります」
「その内、着物に関する内容は2つあり、まずひとつ目の要望が地色に関して『黒』を希望されるとの事。ふたつ目が、着物の柄に関して『この世のものではない怪物』を希望する、との事で、お間違いないでしょうか?」
「か、怪物?」
内容を知らなかったのか、驚きのあまり声が出る早川と、無言だが体を強張らせる井荻の様子に
(やはり知らなかったのか)
と言う事実を、惺と阿久津は確認した。

惺のアパート大家の電話にて
数日前の事、阿久津から初めて依頼内容を聞いた時、惺は久しぶりの仕事に喜んだ。
「へぇ~、なかなかファンキーな依頼者だな、楽しそうだ!」
「待て待て待て待て!こんな依頼オカシイだろ。目立ちたがり屋の気まぐれにしても、何かあるに決まってる!」

阿久津は早川から手渡しされた真弓からの手紙の内容を、この場にいる全員に向けて知らしめる。
惺や阿久津の見た目でも、早川と井荻はその内容を知らなかった様子である。しかし直ぐに動揺を収めると
「あ、ああ、真弓がそれを望むなら、そうしてやって下さい」
「私も、着物について詳しくはありませんし、両親も何も異存は無いでしょう」
と、早川も井荻も同意した。
(今日の白の着物と言い、つまり言いなり、と言う事か)
「かしこまりました」
阿久津は更に条件を続ける。
「そしてもう1つ。制作状況の確認として月2回ほど、真弓さん自身が惺の仕事場への直接訪問を希望する、との旨が記載されておりましたが…」
こちらの条件については早川と井荻、両者に動揺は見られない。しかし阿久津が逆に条件変更を提案する。
「しかし流石に、お嬢様の仕事場への訪問はどうかと…。アトリエには基本惺一人しかおりませんし、訪問の際お嬢様に付き人を付けるにしろ何分むさ苦しい所です。進行状況をお知りになりたいのだけでしたら、私がその都度写真を収めて参りますので…」
ここで真弓が初めて口を開く。
「いえ、写真では無くちゃんとこの目で確かめたいのです」
抑揚のない小さな声に、阿久津が神妙な顔つきに変わる。早川も井荻も顔色が変わった。

再びアパートの大家の電話にて
「とにかくおれが調べるまで、先方から連絡が来ても依頼は引き受けるのは待て、いいな!」
ノリノリの惺に待ったを掛けたのは他ならぬ阿久津自身であった。
電話を切って約1時間後、再び大家さんから呼び出される。
「実は三押デパートの方でも、おれに連絡する前に惺以外の作家を紹介したんだと。そしたら依頼者が『どうしても惺じゃないと困る。惺が描いた着物で無いと結婚をしない、と言っている』からなんだそーだ」
「は、なんじゃそれ?」
その理由の怪しさから、明らかに機嫌が悪くなる惺に、ほらみろ、と言わんばかりの阿久津の声が聞こえる。
「よかったな、ご指名で」
===
「では、この依頼は無かった事にしましょう。私でなくても他に条件を満たせる作家は沢山おりますし…」
と、惺がそこまで言うと、阿久津はワザと左腕を手前に出して机の上に手を付き、これ見よがしに左手薬指の指輪を目立たせる。
「では、最後の条件の『仕事場訪問』の際は私が必ず付き添いをする。と言う条件をこちらから加えさせて頂きますが、それで宜しいでしょうか?」
「ああ、それは有難い。むしろ私からもお願い致します」
早川は阿久津の申し出を喜んだ。
「私もご一緒させて頂いてもよろしいですか?」
井荻の提案に阿久津は
「勿論です!ご連絡頂ければすぐに対応させて頂きます」
と、少々オーバー気味に左手を見せつけて歓迎した。
「では!」
阿久津が場の仕切り直しに入る。
「今までの作品例はすでに写真をお送りさせて頂いておりますので、今日お持ちしましたものは、実際製作に入る前に描く草案とも言いますか、以前製作した作品で現存するラフスケッチと図案で御座います…」

帰りは電車で?

依頼主に過去作のデザイン画と実際に製作された着物の写真を確認して頂き、出来上がりのイメージの違い、簡単な制作工程とそれぞれに掛かる製作期間、下書き以降の大幅変更が難しい旨を説明する。早川側に異存はないと全て了承していただき『打ち合わせ』という名の顔合わせが終了。次の約束を確認し、式場出入り口までご一緒する。その際早川から食事に誘われるが、阿久津は丁寧に断わった。
(真弓さんが口を開いた際、惺はすかさず程よく依頼自体を断ろうとした)
それが惺の本心だから、阿久津の仕事は初志貫徹。
デザイナーの同席が必要な打ち合わせは今回で終わり、あとは惺が駄々をこね出す前にこの場を退散する事である。
式場出入り口で頭を下げた。
「では、デザイン画ができ次第ご連絡させていただきます」
「楽しみにしております」
阿久津と早川が次の約束を確認する間、井荻が出入口に待機していたガイドを呼んだ。早川は阿久津にそっと交通費の入った封筒を渡すと
「君、車をこちらに」
どうやらハイヤーを待機させていたらしい。
「…え」
阿久津は強度の車酔いの持ち主である。
お金持ちの常識なのか?先生と言う立場を配慮してか?時間的にどう考えても電車では帰りのラッシュに巻き込まれる為か?
金一封はタクシー代であり、3人は惺と阿久津が車に乗り込むまで見守ると、車が見えなくなるまで丁寧にお辞儀をした。
「鷹は駄目だよな、怪物じゃないし。風神雷神もいいんじゃないか?」
いまだにやる気の出ない惺に対してガラにもなくモチーフのアイデア出しをする。車酔いの恐怖から逃れるよう自分を誤魔化すために提案する。が、顔の色は覇気がない、と言うより青かった。
交通費を見逃さなかった惺でも、阿久津の車の弱さは熟知している。決して交通費をケチりたい訳じゃなく、阿久津の青さを心配した。
「なあ、駅付近で降ろして貰おう」
「いや、タクシー会社に調べが入ったら困る!何の為の金だ?タクシー代だ、電車代じゃない」
律義なのか不信なのか、早川さんにその場で断れなかった為、阿久津は金銭面の使い方で嘘は付けない、などと惺の申し出を断ると
「登り龍をばーん!って言うのもアリだよな」
「七五三かよ…」
すでに常識的な提案が出来なくなって来ている阿久津にツッコミを入れる惺。
実の所、惺は依頼人に直接会うまで多少の希望を持っていた。ファンキーとまでは行かなくても、多少のユーモアの分かる人物かと…それが間違いの元だった。

惺の仕事場(アトリエ)

「政略結婚?」
惺は生活する為のアパートとは別に、歩いて100メートルくらいの場所に6畳1間の仕事用の部屋を借りている。壁面には画材と資料、真ん中には作業用の平机。惺が修業時代から愛用している特注品で、真ん中に取り付けられた30センチ四方の板を外し、染料を溶かす為の電気コンロが埋め込まれていた。仕事場までやって来た阿久津は、先日の電話ですでにやる気が無くなっている惺にどうしも話しておきたい事がある。
「何でも、婚約者の井荻さんって人が依頼人の早川さんの娘の真弓さんと結婚すれば、早川さんが井荻さんの工場建て直しの資金援助をしてくれるって約束してるらしい」
仕事とは別の、単なるスケッチとして近所の風景を描いたものに色を付けながら、阿久津の話をきいていた。が、話しの区切りから一瞬間を置き
「ちょっとまて、普通逆じゃね? 美人をモノにする為に男が金で援助するもんだろ?」
と、特に興味はない話しに対し、手を止める事は無いにしろ、まともな内容の質問をする。どうやら話を聞いていない訳では無いらしいことを確認できた阿久津は、夏の定番のアロハシャツに扇子をパタパタと煽り
「それがな、娘の真弓さん。若いのに後家さんなんだと。親の知らない間に駆け落ちして男と一緒になったはいいが、借金取りに追われて毎日働き詰めの挙句、旦那は移る病気になって亡くなっちまったって。で、子供もいたんだそうだが、旦那の病気を移さないよう親戚に預かって貰ったはいいが、離した時にはもう病気が移っていて2人とも亡くなってしまったんだと」
作務衣に大きなヘッドフォンを首からぶら下げ、手に持った筆の動きは止めないものの、止まったままのプレーヤー。さすがの惺も
「…そりゃ気の毒に」
と言うほかない。机上には色を作る小皿が数枚、大口のガラス瓶を水入れに、水彩用の固形絵具付きのパレットに筆拭き用の布巾がある。
「って言うか、お前、なに昔話しのソノシート聞いてんだよ」
と、阿久津がいまさら眉間にしわを寄せて、プレーヤーに置かれたにツッコミを入れて来た。
「いいだろ。高貴の友達のみやこちゃんから絵本のおまけに付いてたの貰ったんだ。いるか?」
と、平然と言ってのける惺に
「いらねーよ」
と突っぱねる。
「まあ、若さ故の過ちって奴か。でもそれなら放って置いてもそのうち立ち直るんじゃ?」
固形絵具から色を取り、小皿で合わせて色を作ると、アルシュの表面に筆を伝い、適切な色を吸い取らせていく。
「早川さんもそう思ってか、色々見合いさせたらしい。でも全然駄目で」
「金持の娘でも?そんな事ないだろ」
「違う違う、真弓さん、娘の方が結婚したがらない。どうも娘さんは、旦那の事も子供の事も、亡くなったって事を未だに認めないんじゃないかって事だ」
と、言うことは
「亡くなってから連れ戻されたんじゃないのか?」
と、惺は今度はちゃんと阿久津の方を向いて質問をする。すると
「らしいな」
と、ようやくこっちを向いた惺に向け、阿久津は扇子をパタパタさせた。
「それでも結婚させりゃどうにかなるかもしれないって言う親心で、今回強引に結婚させようとしてる訳だ」
「なるほどね」
惺は色付けを一通り終えると、スケッチから顔を遠ざけ、手に持った面相筆を水入れに入れた。
「で、本題は何だ? 依頼内容についてはこの前の電話の内容だけで十分だろ。依頼人の個人事情には必要以上に立ち入らない。そういう主義だったんじゃないのか? 阿久津は」
仕事以外の用で来る時、阿久津の話は遠回しである。
パタパタさせていた扇子をパン!と閉じると、こんどは阿久津の方が惺から顔を背ける。
「元々この話は工場の立て直しに掛かる依頼だろ?実は、最初に調べたのは婚約者の井荻さんの方で、問題の工場で噂くらいは聞けるかなと、そうしたらさ…」
井荻の工場にて
工員1「ああ、ウチの社長なら女遊びなんか絶対しねーよ。その点に関しては保証するわ」
工員2「しないって言うより、あれは女性不信だなぁ、なんたって大事にしてた婚約者に裏切られちゃったからね」
工員3「前の婚約者がさ、結婚前にもっと条件の良い相手に乗り換えちゃってね。美人だったからしょうがないけど」

惺は阿久津の話を聞きながら、唖然とする。
「おいおいおい…井荻さんの工場って経営傾いてんだろ? とすると工場傾かせた上、女に逃げられて女性不信って…早川さん、幾ら何でもそんなダメ男と再婚させちゃ駄目だろ」
「俺も最初そう思った。でもその工場、工場内に車いすの人や片腕が無い人、歩き方がおかしい人をやたら見掛けるんだよ。だもんだからちょっと気になって、車いすで事務やってる男に、ちょっと理由聞いてみたんだわ、そしたら」

工場の事務室にて
事務員「オレ昔はここの親会社で機械の操作をやってて、誤って怪我してしばらく入院してさ。自分の不注意で起こした事故だったし、会社にも損害を与えちまって、怪我のせいで体も動かなくなって、いよいよ働き口がなくなるなぁって困ってたんだけど、親会社からの紹介だって井荻社長がお見舞いに来て、車いすでも上半身は動くんだろ?ならこっちの事務をやってみないかって言ってくれて…。
その後、事務で働き始めてから気が付いた事だが、この工場では、年齢、性別、国籍、障害関係無く、働く意欲のある人は積極的に雇っていて、多分ここ以外では雇って貰う事が難しいと思われるような人や、コストの方が上回っているだろう人も社長は躊躇いなく雇い入れして生活出来るようにしてくれている。人が人として自信を持って働けるように助けている。それは社長が皆が一生懸命働いている事を現場で見ていて、その努力をちゃんと認めてくれているから出来る事なんだろうけど、俺はただの事務で従業員だけど、この工場の役に立てること、ここで働ける事を誇りに思っている」

「だとよ」
阿久津が話をそう閉めると、惺は『ミイラ取りがミイラになった』経緯を理解した。
ひとつため息をつき、惺は水入れに入れていた筆を取ると布巾で水分を拭く。
「羨ましいなぁ。俺もその工場で雇ってくれないかな」
と無感情で棒読みする。
「お前は努力しないから無理」
阿久津からは容赦なく一刀両断される。
「まあ、でもそういう会社は大抵経営が成り立たなくなる。とうとう工場の元締めからこの工場を閉鎖するか、コストカット、従業員解雇するかと問われて、井荻さんはさらに上の株主へ直談判に行ったんだと。そこで出会ったのが早川さんと言う事だ」
一通り話し終えた阿久津は、再び扇子を開き、パタパタと自らの為に風を送る。
惺はまだ乾かないスケッチを開いたまま、画材棚に避難させると、阿久津が持ってきた缶ビールに手を付ける。
「婚約者の井荻さん、やってる事自体は立派だけど会社や工場はボランティアじゃなし、経営傾かせちゃねぇ」
缶きりで穴を開けると少々泡が噴きだした。が、以前失敗した経験上、汚れて困るものはあらかじめ避難させておいたため事なきを得る。
空の広口のガラス瓶をひとつ取り出すとビールを注ぎ、缶のまま残りを阿久津に渡す。
「おい」
「俺のコップを使うのイヤなんだろ?」
露骨に嫌な顔をする阿久津に意地悪な顔で笑う惺。
「でもそれじゃ依頼主さんは、永遠にデカイ負債抱えるようなもんだなぁ」
やっている事はオカシイが、意外にまともな感想を述べて、珍しいコップからビールを飲む。惺をジト目で睨みつつ、阿久津は缶の切り口で唇を切らない様に気を付けながらビールをすすると
「まあ、早川さんは特許で金持ちになった人だし、他にも色々資産持ってるから
工場一個分くらい大丈夫なのかもな」
と不機嫌な顔で、惺には一生想像がつかない話をする。
「井荻さんも女を見限ったというかドライと言うか後ろ向きと言うか…女には何も期待していないらしいし、いろんな意味でお互いのニーズが合ってるといったところだ」

惺は阿久津の思考停止した頃を見計らい、駅近くでハイヤーを降りると、ぐったりした阿久津を構内のベンチに座らせた。ラッシュのピークを過ぎたとはいえ、まだ電車に揺られるのは辛いだろう。夜ともなると屋外でも比較的過ごしやすい為、阿久津をここでしばらく休ませる事にする。
惺は改めて今回の依頼について考える。ファンキーな依頼だと思っていたが、やはりこの仕事はおかしな点が多すぎる。 阿久津は最初からこの依頼を不審に思っていたし、自分もその時ダメ出しをしていれば、阿久津は断っていただろう。だが…
大東亜戦争、第二次世界大戦は阿久津がまだ訓練兵のとき、戦場に駆り出される前に終戦した。
「出来の良い人達が前線送りにされて、俺みたいなカスが無事なまんま。こんな残り者ばかりじゃこれからの日本、きっとろくでもないぞ」
自分をそう評価する残りカスが、巡り合わせた工場でもう一つの自分の未来を見てしまう。そのため依頼人と会い、更に不信感が増したのに、阿久津は断れないでいる。
ホームからぼんやり風景を眺め、電車を数本数えたころ横で阿久津の声がした。
「予想以上に凄いオーラ出してたな、あれはきついわ」
まだ具合悪そうな顔をしたまま、阿久津は喋り掛けて来た。
「やっぱり知らなかったんだな、怪物希望」
惺は改めて今回の顔合わせで確認したかった事を口にした。
「…惺の般若を見て結婚を決めたのを親も知ってるんだから、そこは知らなくてもさして問題じゃ無いだろ。それより怪物なら何描いてもいいなんて好条件普通無いぞ。まあ、惺にして見りゃ何でもいいとかいわれりゃ馬鹿にしてるのかって思うかも知れないが、大抵『何でも先生のお好きに』なんて言う依頼人は、そう言えば作家が張り切って傑作を描いてくれると勘違いしてる輩だし。だもんだからいざ出来上がると難癖付けて問題になる。が、早川さんらは何着てもいいと言っているし、井荻さんも結婚して貰えるなら何着てもいい良い訳だ。当の真弓さんもあの反応からすると、大事な事は惺が依頼を受ける事で、着物の内容じゃないらしい。ならある意味チャンスだろ?どうせ描くなら思いっきり楽しんで描けばいいし、後々宣伝になるようなの描いときゃ役に立つかもな~」
阿久津はゆっくりと途切れながらも、今日の打ち合わせで思ったこと、喋りたかったことを惺に伝える。たしかに阿久津の言う通り、こっちにとってこんな都合のいい条件は他にない、けど…本当にそれでいいのか?と、惺はいまだに迷っていた。
「悪いな、付き合わせて」
そんな惺に、阿久津が柄にもないことを言う。
別に阿久津が悪い訳じゃない事は、惺も良く分かっているが、ふともう一つ別の可能性を思いつく。
「実は俺に心酔してて、ホントにサインだけでもOKとか?」
自分で言いながら自分で照れて、エヘヘっと気持ち悪く笑う惺。
「常識の範囲でモノを言え!」
流石に阿久津によってあっさり却下。寄りかかっていた体を起こし、胸ポケットから煙草を取り出す。
「まあ、名指しでお前さんを指名しておきながら絵の内容は言及しないって言ってるんだ。何を利用するつもりかは分からないが、こっちは逆に利用してやればいい」
と阿久津は言うものの、惺はどうしても理解出来ないことがある。
「しかしそこまで結婚させたいもんなのかね?親ってのは」
今日式場で見たカップルは皆幸せそうに笑っていたことを惺は心で思い出す。阿久津は吸っていた煙草を外し
「結婚させたいって言うより、社会人として成人すれば家庭を持つ、子供を作る。それでようやく一人前とみなされる」
そう言うと阿久津は左手薬指の指輪をこれ見よがしに見せつける。
「お前だっているんだろ?文通相手の花さん」
噂好きのおばちゃんの如く、意地悪く笑う阿久津。
「花さんとはそういう関係じゃない、純粋でプラトニック!」
何故か赤くなって怒る惺。
「現実から目を逸らすなよ、真弓さんじゃあるまいに」
呆れる阿久津。再び煙草を咥える。
「結婚が常識とは言わないが、あの2人が結婚することで幸せになるかは当人同士の問題だし、特に真弓さんの場合このまま一人でいさせても不幸から抜け出そうとするようにも見えない。少なくとも工場の人達の雇用は確保されるし早川さんは安心出来る。お前が描けばすべて丸く収まるんだから、そこは割り切って描けばいいんじゃねぇの?」
そんな事が出来るくらいなら、恐らく作家なんかになる事は無かったと惺は思う。多分自分が割り切れないものは皆が無意識に避けている、見て見ぬふりをしているもの。最初に考えなくてはいけないものなのに、当たり前すぎて見逃し考える事を拒否しているもの。
「さて」
次の電車の到着を告げるアナウンスが聞こえてくると、阿久津は立ち上がり、吸い殻入れに煙草を入れに行く。その時、惺は背後に人の視線を、見られているような気がした為気配のする方へ振り返る。が、人が多過ぎる上それらしき人も見あたらず、今は気のせいにする。すると帰って来た阿久津が
「デザイン決まった後の文句なら、へのへのもへじ だろうが何だろうが、俺が何とかしてやる。化け物でも怪物でも良いからせいぜい驚かしてやれよ」
と、適当な事を言うと、ホームに入って来た電車のドアの前に並んだ。その際惺はもう一度視線を感じた背後を見た。が、そこにはもう誰も居なかった。

真弓の本心

惺がアパートに着いたのは夜の21時を過ぎていた。
高貴は夕飯を食べていない惺のためにインスタントの袋麺を持ち出すと、先に鍋で沸かしていたお湯にキャベツを入れてボリュームを出す。
「インスタントラーメンに野菜をたくさん入れて卵を一つ。うわっ贅沢!」
今日の夕飯の内容を独り言よろしく、惺に聞こえるようワザと大声で喋ってみる。惺は普段からグダグダしているが、今日の打ち合わせから帰宅して後一層グダグダ感が増している。そういう時は決まって嫌な事があったのだ。と、元気が出るよう気遣う高貴に、惺は本日の愚痴を披露する。
「金持なんか後家だろうがヤモメだろうが、放って置いてもどうせ幸せなんだし、だいたい政略結婚なんて会社と家の結婚なんだから、契約できればそれで良し。結婚式なんか別にやらなくたっていいんじゃねーの?」
今の所、工場を助けるには結婚させる以外に選択肢が無い為、惺もその方向で考えている。が、今ある材料だけで考えようとすると、どうしても頭が拒否反応を起こすのだ。
そんな惺を見て高貴は、要するに描きたくないらしいと理解した。にしても
「引き受ける事にしたんだろ?工場の為、お嫁さんの為、生活の為」
と、軽く発破を掛けてみた。が
「いや~…まだ決めてない」
「え!?」
「だって嫌々結婚とかアホらしいだろ?」
とのことだった。高貴は当然引き受けただろうと思っていた為、惺がまだそんな事を考えていることに驚いた。けど… 額に鉛筆のヘリを押し付け眉間にしわを寄せて考える師匠の前に、出来立てのインスタントラーメンを鍋ごと置く。
「ホント稼がないとラーメンも食べられなくなるぞ」
小学校5年生が諭すよう大人に言う。高貴は先にご飯を済ませている為、ソファー替わりのマットレスの上に膝を立てて座ると日課の絵を描き出した。
要するに阿久津さんが工場を心配するのと同じに、惺はお嫁さんの事を心配している訳だ。と言っても解決方法がある訳でなし、話によると全力で嫌オーラを出している人ということだから、確かに描きにくいかなぁ?と考えた。
(じゃあ、もしおれが依頼されたなら、何を基準に描くだろう?)
高貴はふと思いつき、スケッチブックを新しいページに変えると、惺には見えないよう何気なく隠し、ものは試しとデザイン画を描き始めた。その前に座る惺はソファの縁を背もたれにして、ラーメンを啜りながら考える。
「ん~…」
高貴の言う事はもっともだし、阿久津の言う事も良く判る。短期の仕事ならそれでもいい。だが一度制作を始めると、半年から一年は制作に時間を取られる事になる。分業であればそこまで時間は必要ないが、惺の場合デザインから下絵、糊引き、色つけまで一人で行う完全オリジナル一点ものになる為、他者が制作に関わらない分、作家のやる気は作品の出来に関わる重要な要素になる。
しかし今回の依頼者のように依頼者自身が何を着たいかがはっきりしていない場合、デザインの方向性が見えず、このままでは目的の分からない旅をするようなものになる。
通常は今までの作品を見せて、その中からイメージに近いものを見つけてすり合わせていくが、今回に限っては本当に『何でもいい』。目的も行先も手段も何でもいい、ただ結婚式で着る着物を作ればいいのだ。ならせめて結婚式で得たい感情、楽しみたいのか、勉強したいのか、癒されたいのか、それすらもない。唯一の手掛かりが『この世のものでない怪物』だが依頼者が怪物に対してどんなイメージを持っているかも分からず、聞き出そうにも依頼者は話し合いを『なんでもいい』として拒絶している。
自分をどう見せたいのか、どうわかってほしいのか?イメージやモチーフを選ぶ事で大体どんな風に見せたいのか目星をつける。それが本人にまったく無い場合、見る側の印象をどう感じさせたいかをこっちで考えるしかない。というのにどうにもこうにも
(ホント、こういうのが一番困る…)
と、惺は心の中で頭を抱える。
高貴はむしろ、好き描いていいのに描けないでいる惺の方が理解出来ない。
「般若にピンときたって言うなら、やっぱり恨み、なのかな?」
と言っても結婚式だし、描く方としては勇気がいる、と高貴も自分なりに考えてみる。
「俺はそれでもいいんだけど、なんかそれも違うような…」
高貴は般若を描く前提での心構えと、常識的に結婚式で描いてもいい題材かを質問したつもりだった。しかし惺の頭の中は今、あくまで自分が描く事を前提で高貴の言葉を聞いていたため、高貴の聞きたい事を飛び越えた答えを返す。つまり惺なら般若でも恨みでもそれが依頼者の心からの要望であれば迷わず描く、しかし、今回はそれすら違うんじゃないかと疑問視している。と言う事だった。高貴は惺の答えから依頼者の希望を意識するということは、そこまで深く考えなくちゃ描けないものなのか?と理解出来ずにいる。好きなものを好きでいいでは駄目なのか?ラジオから聞こえる音は雑音混じりで、リクエストで選ばれた曲は、惺の嫌いな演歌だった。
「仕事って割り切るのは?」
と高貴は惺に聞いてみた。
「仕事だから、だよ」
と惺は答えた。すると
「駄目だ、何も思いつかん!」
と、言うといきなり高貴のスケッチブックを漁り始める。
「げ!(そう来たか)」
とばっちりが飛び引きつる高貴を他所に、惺の抜き打ちチェックが始まった。高貴は惺を師匠と呼んではいるが正確には高貴の兄弟子で、高貴の本当の師匠は惺の師匠と同一人物。つまり惺と高貴は兄弟弟子である。そのため惺から高貴へ、絵に関して特に何かを教える事はあえてしないが、気が向くと高貴のスケッチを確認し、間違いがあれば指摘していた。批判や批評などは一切なし。だがその何も言わない所が高貴には滅茶苦茶怖かった。いつもの元気は何処へやら、怯えて縮こまる高貴には目もくれず、じーっとスケッチを見つめる惺。
「…お前、また本物見ないでテキトーに描いたな、描くときはちゃんと実物見ろって」
と言いながら、相変わらずじーっとスケッチにだけ注目する。惺の無表情は真剣なだけと分かってはいるが、こと自分の絵に関して高貴は客観視出来ない分、どう描けているのか自信が無い。たった一言の指摘すら涙目になる。
「だって今この辺花咲いてないし、選ぶの時間かかるし」
泣かないよう誤魔化すため思わず小声で言い訳をする。
「なら図鑑を初めから順に模写」
スケッチから目を離さない惺。師匠が同じなだけに反論も出来ない。真の師匠からの課題は、水彩画を1日最低1枚仕上げまで描くこと。題材自由と言われたが、基本は植物。友禅をやるなら先ず植物が描けないと何も出来ない。ただしこちらも抜き打ち検査は、結果いかんでは破門になる。真の師匠曰く『遊ぶ暇があるならその辺にスケッチに行け』との事だった。
「実物で観察出来ない場合は、図鑑や写真で確認する。変なクセが付いたり間違ったまま覚えると大変だぞ」
パラリとページをめくり、次に描かれた絵の順に、真顔でじーっと見つめている。
「図鑑じゃ同じ角度の写真しか分からないし、同じ絵しか描けないし」
惺には小声でも言い訳出来るだけマシ。上の師匠には言い返すなんて考えられない。
「お前言われなかったか?ミカンを3年、リンゴで5年。同じ絵を何十枚、何百枚、何千枚と描いてこその職人だ」
とそこへ、こんな夜中にも関わらず大家さんがやって来た。
「惺さん、電話だよ。早川さんって女の人」

銀座の喫茶店にて

「契約内容の変更をしたい」
昨日の今日で呼び出されるとは思わず、今日は阿久津のお迎え無しで、現地集合と言い渡される。依頼人に会う際の服装に関して阿久津が五月蠅い為、普段は阿久津の目の前で着替えるが、今日のように緊急の場合は、着物を着ていれば大抵文句を言わない。ただし昨日と同じ着物を着れば文句を言われる可能性大のため、今日は麻の着物と羽織着用する。
真弓さんはすでに現地に到着していた。日傘を挿し、色は青紫、絽の鮫小紋の訪問着。というか…
「今日はおひとりで?」
真弓の能面の様な顔は一人でいてもすぐに判ったが、あの2人は
「はい、突然でしたので二人とも予定が付けられず…」
真弓から電話が来た時、本人が直接電話を掛けて来た事に驚いたせいもあるが、昨日、打ち合わせで同伴の確認したのにも関わらず、いきなり一人で来るはずがないという油断があった。その上
「阿久津は?」
来るべき者の姿も無い。
「阿久津様には一時間、家を出る時間をずらして教えました」
やられた、と惺は思った。
「なら阿久津の到着を待ちましょう、交渉事は阿久津を通さず私だけでは出来ませんから、また後で来ます」
それだけ言うと、惺は即退散が正解と判断。その場で阿久津を待たずにすぐ立ち去ろうとした。すると真弓は
「いえ、今日は交渉では無く、今回の依頼内容に関して…斐川様に事前に聞いて頂きたい事がありまして、このような手法でお呼び立てするしかありませんでした」
立ち去ろうと歩き始める惺を慌てる事なく、ゆっくりと丁寧に説明をする。
「お忙しい中を誠に申し訳ありませんが、少しお時間を頂けないでしょうか?」
そこまで言うと、真弓は行き交う人の目を憚らず深々と頭を下げた。
小さな声、なのに何故か惺の所まで聞こえてしまう。その場を離れるべく歩みを進めているのに、一人残された真弓は頭を下げたままでいる。
惺はこう言う強引なやり方がどうにも苦手だった。しかし立ち止まり振り返った先、小さくなった青紫の影はいまだに頭を下げている。恐らくそれは阿久津が来るまでそのままだろう、と惺は思った。仕方なく来た道を戻ると、真弓に頭を上げさせて
「何も聞きませんよ」
とだけ言うと、待ち合わせ場所に指定された喫茶店に1人で先に入る。
指定された喫茶店は真弓が選んだのか、あまり打ち合わせ向きでは無い、暗い小さな店だった。白熱灯のシャンデリアにわざと証明を落としたアンティーク調の家具で纏め、室内の暗さに相まって窓の外がやけに明るく真っ白に見える。阿久津が来たらすぐ分かるよう、外から見え易い窓側の席を選び、後ろからついてきた真弓は惺の向かい側に座る。ウェイトレスがオーダーを取りに来ると、真弓は紅茶を、惺はコーヒーを頼んだ。ウェイトレスが席を離れると間を置かずに真弓は勝手に話し始める。
「まずはお詫びをさせて頂きたく思います。昨日は打ち合わせの際、私からの一方的な依頼から大変失礼な態度を取りましたこと深くお詫びいたします。大変失礼を致しまして誠に申し訳ございませんでした」
真弓はそう言うと深々と頭を下げた。いつまでもそのままの体制の為、少々困惑する惺だったが、紅茶が運ばれて来た際ようやく頭を上げる。真弓はひたすら真摯に誠意を伝えようとする姿勢を崩さないでいる。
(まいったなぁ…)
真弓の強引なやり方もさることながら、これ以上依頼人のプライバシーに関わるのは流石の惺も…阿久津じゃなくてもどうかと思う。前置きに聞きませんと言ってあるし、向こうが勝手に話しているだけだから、援軍の阿久津が来るまでは聞かないし聞こえないフリをする。と言う方針を惺は固めた。
「斐川様、阿久津様にはこの度は婚礼用の衣装の制作をお願い致しましたが、この結婚には少々事情がある事をお二人に知って頂きたく思います」
真弓はゆっくりと話し始めた。
「今回の結婚は私にとっては2度目になります。1度目は駆け落ちでした。今回はお見合いです。1度目の主人は亡くなったと聞きました。」
(真弓さんが、亡くなった事を認めていないらしいっていうのはこの事か)
と惺は思った。
「1度目の主人と一緒になった後、子宝にも恵まれましたが、間もなく主人は病気に倒れてしまいます。うつる病気の為、子供を親戚へ預け、私は夫の看病をしながら夫を養う為に働いておりましたが、しばらくして私の父に居場所を知られてしまいます。父は夫と別れて、私に家に戻るよう説得をしますが、私はそれを無視しました。しかし父は夫の病気の事を知ると、今度は夫を療養所に入れるよう私に勧めて来たのです。私は例え自分が病気になっても、主人と暮らせる生活を望みましたが日に日に体が悪くなる主人を思うと、自分の我儘を通す訳にもいかず、主人の病気が良くなる事を願うと同時に、子供を親戚から引き取る事を条件に、夫を療養所に入れる事を承諾しました」
「主人を療養所に入れたのち、子供を引き取る為に一旦家に戻ると、子供は待てども来ず、ひと月、ふた月過ぎると、主人とも連絡が取れなくなってしまいます。いてもたってもいられず、何とか2人に会うため、外出しようとしますが、その時には家からも出して貰えなくなっていた為、どうにもなりませんでした。せめて2人がどうしているかを教えて欲しいと願うと、2人はすでに亡くなっていると言うのです…」
BGMが静かに流れる。時折人の出入りと共に、接客する音が聞こえる。目が慣れて来たのか、外の風景が確認出来る。昼間から人が歩いている。
「どうして、信じられるでしょう?」
運ばれてきた紅茶に手を付けず、ずっと聞こえている小さな声は、最初と違って少し震えているように惺には思えた。惺はコーヒーに砂糖を入れると、スプーンでカチャカチャとかき回す。
「私が信じられないだけ、信じたくないだけで、亡くなった事は真実かもしれません。だけど・・・」
回しても回しても砂糖は消えない。コーヒーは冷めてしまっている。惺はスプーンをカップの脇に置き、砂糖が溶けるのを待つ事にした。
「家に戻ってからというもの、何処にも出させて貰えずに屋敷の中で過ごしました。亡くなったと伝えられる前から何度も外出をさせて貰えるよう、せめて連絡だけでも取らせて貰えるよう頼みましたが、外出も電話も許されず、唯一の手段は手紙だけ、弁護士を通して出す事を許されました。ですが返事は今も何処からも貰えません。主人と子供2人の行方について、父や弁護士から伝えられる話以外、誰も教えてはくれませんでした」
真弓はそこまで話すと肩の力を抜き、冷めてしまった紅茶を手に取りそのまま口にする。外の光を目を細め、眩しそうに見る顔は、昨日の能面とは違う。少なくとも今の惺にはそう見える。
「あれから5年、2人が亡くなったと知らされてから、度々お見合いの話をいただきました。しかし、どうしても信じられずに全て断ってきました。でも、実はあの日…井荻さんとのお見合いの日です。お見合いを済ませた後、たまたま訪れた三越の催物会場であの着物を見たのです」
惺が僅かに反応するが、真弓は淡々と話しを続ける。
「お見合いがある日は、父と一緒ではありますが私を外出させてくれます。父は私が結婚する事を望んでいますから、結婚式に関する打ち合わせを理由にすれば、少しではありますが自由になれる可能性がありました。やりたい事は、確認です。もしかすると2人を探す事も、会いに行く事も可能になるかもしれない。勿論それが幻想で、父の知らせが真実でも構いません。生きていて欲しいと願っておりますが、それ以前に今私は父の言葉が信じられないでいるのです。だから…私は自分の目で真実を知りたい、確認をするための自由な時間が欲しいのです」
(だからあの条件か…)
惺はようやく真弓の真の願いを理解した。なぜ友禅なのか、なぜ何でもいいのか。惺は再びスプーンでコーヒーをかき回すと一気に飲み干し、ソーサーにカップをカチャンと置く。
「では、もしご主人やお子さんが生きていたら?」
今聞こえた音が、惺の言葉だと真弓は気付く。
「もしご主人とお子さんが生きている場合、井荻さんとの結婚はどうするおつもりですか? それにご主人もお子さんも既に5年も経過しているなら尚更、それなりにしがらみもあるでしょう」
惺は自分が最初に言った言葉など無かったように、シレッと真弓に質問をする。もし話しを聞く気があれば、扱く当然な質問だった。真弓はしばらく惺の顔を見遣ると
「幸せでいてくれていればそれでいいのです」
野暮な返事はせず、何食わぬ顔でそう答えた。
「もし主人が別の良い人と幸せになっているのなら邪魔をしたくはありません。もし子供が親戚の家に置き去りにされたと思っていた、夫が療養所に入れられたのは、離婚したかったからだと思われていれば、2人共私の事を恨んでいるかもしれません。今でも私を待っていてくれているかも知れません。でも、それも全て想像。現実を知らない事には何も決められません」
そこまで真弓が言うと
「一目、無事な姿を見れればそれでいい」
惺が言葉を続ける。
「はい」
惺の言葉に答える真弓。
「では、死んでいたら?」
真顔のまま聞き難いことをストレートに聞いてくる惺。彼の聞きたい事に誤魔化しや綺麗事は通用しない旨を真弓は感じとっていた。
「分かりません…」
だから真弓も正直に答えた。
その後しばらくの間、沈黙が続く。真弓は自分の話したいことは全て言い終えたのだろうか?だとすれば、惺はようやく真弓の願いを理解した。しかし惺にも今回の依頼に関して、どうしても真弓に確認しなければならない事がある。この件がなければ惺も阿久津もこの依頼に関わる事はなかったし、そこを確認しなければ動けない話が。
「今回の結婚相手の井荻さんの工場の件についてはご存知ですか?」
「はい」
知らない訳は無いが、話の前置きと念のために確認する。
「貴方と井荻さんが結婚しなければ工場はつぶれ…」
「それは私がさせません!」
惺が全てを語る前、真弓は惺の言葉を切り、強い口調で即答する。
「私がこの結婚を自分の為に利用すると言う事は、井荻様や工場の方達から恩を受ける事に相当します。恩人に対する報いは必ず果たすと約束いたします」
小さな声に硬い意志と決意を秘め、真っ直ぐに惺の目を見つめ返す。
…溜息をつく惺。
大した気骨だ、白装束といい怪物といい。この人なら約束を破る事は無いだろう。これで俺がこの仕事を引き受けなくても、井荻さんとの結婚が破断になっても、既に工場は潰さない約束は取り次いだ。だが真弓さんは恐らくそんな約束をしなくても、最初から工場を救うつもりでいたんだろう…と、惺は根拠無く真弓の約束を信じた。なら
「本来の般若の意味をご存知ですか?」
惺は唐突に、昨日の打ち合わせでは聞く気にもなれなかった、受注者として依頼人への質問を始めた。
「般若と言われている面は般若坊と言う方が彫った鬼の面です。般若という言葉自体で言うなら智慧を意味し、般若心経の意を汲むならこの世には苦も喜びも何もないという意味を指すそうです。
真弓さんは私の般若の着物を見た時、どの意味を持つと思われたのでしょうか?亡くなったと告げられた夫子供への供養なのか、外出を許さない親への怒りなのか、真実を知りたい叡智なのか…」
突然始まった惺の話を、真弓はしばし何が言いたいのか理解出来ないでいる。と、惺は軽く深呼吸して自分の真意を付け加える。
「阿久津からは製作依頼をする際、ご両親と婚約者に私が描いた着物で無ければ結婚はしないとおっしゃったと伺っております。しかし今日、貴方のお話を直接伺い、真に望んでいる事を理解する限りでは、今回の作家が私でなければならない理由は何一つありませんでした。真弓さん、早川さんには申し訳ありませんが、私という人間はいい加減で適当で臆病で、自分の為にしか仕事を受けない性分です。それなのに多くの人の人生を左右するような決断を、少なくとも貴方や井荻さん、早川さん3人の人生に関わる決断を私に押し付けられるのは…」
惺は破断を覚悟した。
「非常に迷惑です」
毅然として言い切る惺。惺の言葉に反応出来ず、唖然とする真弓。しばらく惺の顔を見つめると、まだ飲みかけの紅茶に目を落とす。真弓がこの計画を思い付いた時、自由時間の都合を付ける際、嘘をつく事を拒否される事はあっても、依頼そのものを拒否されるとは考えもしなかった。惺が引き受けない場合、結婚しないと言ったのも、婚礼衣装に友禅を選ぶ理由にする為のものだった。華やかな展示会の隅っこで、明かに異質な禍々しい着物を見つけ、この作家なら自分の気持ちが分かるかもしれない、などと言う幻想を抱いた。真弓は惺から面と向かって迷惑だと告げられた事で、迷惑の可能性を分かっていながら甘えで目を閉じ、結果、思い通りにならない事を力でねじ伏せていた事実に気がついた。自分自身の愚かさに、真弓は悲しそうに項垂れると、今日何度目かの謝罪をする。
「そう、ですよね…お怒りになるのは当然です。本当にご迷惑をお掛けしてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
それでも誠実であろうと真摯に惺の質問に答えを出す。
「夫子供への願いの為の祈りなのか、親への恨みの念なのか、真実を知りたい欲望なのかと言われたら、般若の意味も知らなかった私には、正直判りません。ただ貴方の描いた般若を拝見した時、この着物でなら結婚してもいいと思えたのです」
惺は黙って聞いている。
「結果的に斐川様や阿久津様を、友禅を利用する形になってしまいましたが、あの般若を見なければ、私は今度の結婚自体受ける気はありませんでした。あの日、三押で斐川様が描かれた着物見たから、だからこそ、絶望から立ち上がろうと思えた、変わろうと思えた…」
そこまで話すと真弓はふいに顔を上げ
「切っ掛けに過ぎなくても、あの着物が無ければ、私の今日もなかったのです」
キッと顔を引き締める。
「改めて、工場の問題に関して結婚の事情は、今後立ち入らせる事はありません。時間を作る口実ではありますが、友禅で着物を作るなら是非斐川様に製作をお願いしたいと思っておりますが…」
寂しげな表情に戻ると
「それでも無理でしょうか?」
と真弓に切に問いかけられる。
惺はすぐには答えず、しばらく店内を見回すと、他の客のテーブルに今更アイスコーヒーという代物を見つける。
(そうか、そっちにすれば良かったのか…)
喫茶店などと言う洒落た場所に縁の無い惺は、アイスコーヒーの存在を忘れ、暑い中ホットコーヒーを頼んだくせ、冷めてさせてしまった。コーヒーカップの底に残った溶けきれなかった砂糖を見て、気まずそうに頭を掻く。
(まあ、言いたい事は言えたし、聞きたい事も聞けた)
先程の話しも、破断を覚悟したのはむしろ惺の方で、真弓の本心を聞きたかっただけだったのだが、真弓の再三の謝罪とここまで言われながらの再依頼に、少々自分の意地悪の度が過ぎたのか?と、真弓に対し罪悪感が湧いていた。
惺はコホン、とベタな咳払いをすると真弓はその音に上を向く。
「あ~…一応、ですが、契約に関する事は阿久津が居ないと基本私だけでは何も出来ません。もし条件変更したい事や相談事などがあれば、まず阿久津の方に相談して頂くことになりますので…」
「…え?」
惺の話しにイマイチ状況を飲み込めない真弓は、訳が分からず不安げな表情をする。惺というと、今までの真顔からしらばっくれた表情に変わって
「それと、少ない自由時間でどうやって2人も行方不明者を探すつもりです?」
惺の思わぬ質問に困惑し、返事に困る真弓。自由な時間を作る事に懸命で、それ以上の事まで真弓は考えていなかった。
「それは…」
すぐに答える事が出来ずに、真弓は言葉詰まっていた。すると
「お手伝いしましょうか?」
惺はそう言うとニヤっと笑い、窓に向かって手を振った。
「阿久津が」
真弓は驚き、慌てて惺の手の振る方を見る。すると真弓の後ろの席で、阿久津が物凄い汗を掻いたまま、アイスコーヒー片手に、惺に向かって睨んでいた。

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