友禅師 惺 〜結婚式〜04 直接聞く

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直接聞く

「中々好調じゃないか、向坂君」
「ありがとうございます」
「これなら問題無く、早川に権利を引き渡すことが出来る。まあ、このまま君に任せておけば、特に売却までしなくても良さそうだが、約束は約束。先に言い出したのはこちらだし、欲を掻くのも良くないしな」
「人事の件ですが」
「ああ、そっちも喜んでるよ。移転に併せて、社内の整備が進んで助かるとね。君には早く本社に戻って来て貰って、こっちを助けて欲しいと言っとったよ」
「そうですか。お役に立てて何よりです」

惺と二手に別れる

惺と高貴が、風呂屋に出掛けようと、アパートの扉を開けた時、阿久津は再び現れた。
「工場があれじゃ、助ける意味が全く無い!」
と、辿り着くなり訴えるため
「じゃあ、どうしたいんだ?」
と、惺は阿久津に聞いてみる。それが間違いの素だった。

阿久津は現在、通常の仕事以外に、『捜索』活動も行っている。ゆえにスケジュールが過密状態のだが、更に工場の調査まで加えるとなると、必然的に何かが対応不能になる。では何を手放すか?

惺は、阿久津の過密状況を知っていたため、『捜索』をプロに頼むのだろうと考えていた。が、先程の一件により、工場への出入りが禁止になったであろうと、阿久津本人が推察する。ゆえに非常に不本意ではあるが、自身は『捜索』に専念し、惺に工場監視を任せると、有無を言わせず命令した。

「でももう、工場を助ける意味がないんだろ?」
と、惺は髪を洗いつつ、再来の理由に話しを戻す。
「だから、工場がおかしくなったのは、どう見ても、あのスーツのひょろデカイ奴のせいだろうが!」
と、阿久津はケロミンのたらいを振り回し、八つ当たりがてら、惺から石鹸を奪い取る。
帰り道、親父のラーメン屋に寄り、持ち帰り用のおでんを頼むが、待ち時間も阿久津の文句は止まらない。
ならばこの異変。元凶を排除するよう早川さんに直訴すればいいのでは?と、持ち帰ったおでんの中から大根を奪った高貴が言うと、それは違うと、惺と阿久津の意見は一致。掴んだ具も一致する。
「この件について、俺らが口を出すのは、正直余計なお世話だろ。井荻さんや早川さんに『なんで?』って聞かれたらどう答えるんだ? 実は貴方の工場を救いたいと思っています。その前に工場を元に戻したいので、是非協力させて下さいな。って言ってみろ。馬鹿にしてるか、舐めてんのか?って話しだろ。ただの着物屋が突然しゃしゃり出て、工場が救えるなら、潰れる工場なんてありゃしない」
と、阿久津は説明しながら、1つしかないつみれを惺に分けることなく、口の中に放り込む。
「工場のことは、真弓さんに言えば協力してくれるだろう。真弓さんから、早川さんに話して貰えると都合がいいが、真弓さんに連絡するには、早川さんを必ず通す必要がある。今日会ったばかりなのに、さすがにまた同じ理由で呼び出す訳にも行かないし」
と、食べながら聞き取り難い声で、現場で行える策を模索する。その意見に対して惺は
「着物を作らなければ結婚しない、と言っていた真弓さんが、工場に口を出すのはおかしくないか?」
と、疑問を投げてたまごを取ると、箸で半分に割り辛子を付ける。阿久津は惺の疑問を一理あると納得したかのように、この論議に結論を出す。
「つまり最善策は、とっとと捜索を終わらせて、バレても良い状態にした後、井荻さんにタネ明かしして、スーツ野郎の件を早川さんへ直訴して貰うこと。ただし井荻さんは立場を失い、本人がどう思っているかも判らない。工場を助けたかったのは、井荻さんのはずだがな」
と、付け加えた。その理由はただひとつ。
「そりゃ、聞くしか無いだろう?」
惺に自らこのセリフを、自身の口で言わせるために。

阿久津の意図的な流れによって、共同トイレの水場にて、3人は歯を磨きつつ、惺は阿久津から『工場偵察』アンド『井荻さんとお近づきになりたいわぁ』作戦の任務を、与えられることになる。
それにしても、毎度分かっていることではあるが、言いたく無いが、言わざるを得ないことを説明する際の、阿久津の話しは周りくどい、と惺は思う。高貴は既に就寝済み。結局、阿久津が寝入るまで、惺は付き合うことになる。

次の日。
かく言う阿久津も、子供の行方について、出来るだけ早く対処するため、捜索を隠したまま、早川さんから情報を引き出せないものか? と、着物製作の中間報告として、早川に面会を求めてみる。すると、意外に容易く時間を貰え、更に早川邸に招かれたため、上手く行けば真弓や松崎と会えるかもしれないと、阿久津は自分の都合で考えた。
(今はそんな目算しか出来なくても、
何もやらないよりは全然いい)
決して無関心だった訳じゃ無い。前兆はあったが放置した。自身のミスを認めた後にやることは、改善に向けて行動することである。と、阿久津は自分に言い聞かせた。

早川家潜入(阿久津)

阿久津は日を改めて早川に連絡をすると、日曜の午前中であれば時間が取れると返答される。その日、阿久津は取り引き先へ出張する予定が入っているが、早川と次の約束が取れる保証が無い。ゆえに列車の出発時刻を、昼から夜に変更した。ところが
「台風かよ」
予感してはいたものの、ビンゴとなると、思わず声に出して、風に対してツッコむ阿久津。
先々週に上陸し、先週は列島にニアミスする。嫌な予感はしていたが。まだ上陸はしていないものの、雨は横殴りになりつつある。
惺は、工場までタクシーを使うと阿久津に言うが、結局、何処かで濡れるのだから、雨ガッパと傘で十分だ、と、阿久津は気合いで外出する。実は阿久津は今回、松崎とふたりで話しが出来ることに期待して、自家用車のお迎えを受ける覚悟でいた。しかし今日に限り申し出は無く、低地は浸水が始まっている。メダカが泳いでいそうな道をザブザブと通り抜け、小高い平地へ免れる。
早川邸は駅から歩いて15分ほどで到着した。長い土壁に古く立派な門を開けるよう呼び鈴を鳴らすと、人のよさそうな中年の家政婦が傘とともに現れた。
「外は大変だったでしょう?」
門を潜ると、目の前に広がる庭と池。敷石を辿り右横の池を後にして、家の土台の段差を登ると、奥にある平家の日本家屋の屋根のある玄関へと辿り着く。

阿久津はそこでタオルを渡され、濡れた部分をひと通り拭くと、屋内に入ってすぐにある小さな部屋に通される。
「ここでお待ち下さいませ」
一時待機の部屋だろうか。座布団と平机のほか何も無く、障子の先、広い縁側からは、恐らく晴れていれば庭が見えるだろう、ガラス窓に閉じられた雨戸があるだけである。残念ながら阿久津は今日、待つつもりが全く無い。限られたチャンスに出来れば早く、真弓か松崎に会いたいのだ。縁側からそそくさと探検を開始すると、間も無く女性の声が聞こえてきた。声の出所らしき場所を探し当て、柱の影から中を覗くと、女性と思われる後ろ姿を確認する。
「またこんな古いハンカチを使って、なんてみっともない。こんなものすぐ捨てておしまいなさい!」
声の主の女性は、誰かから何かを、乱暴に取り上げたように阿久津には見えた。

矢継ぎ早に説教を続ける後ろ姿の女性は、声からして中年とわかる。怒られている相手は、さきほどタオルを渡してくれた女中だろうか? 阿久津はその場を通り過ぎようとした。が

「なんですかその顔は、可愛げの無い」

中年女性の言う、可愛げのない、と言う台詞が気になった。

相手の姿が見えないため、縁側からもう少しだけ身を乗り出して室内を覗き込む。

「こんな検査をされる、貴方が悪いんでしょう? この前のように、メモを持ち出されでもしたら、またみんなに迷惑がかかる事くらい分かるでしょうに」
それでも相手が誰か見えないため、一か八か、阿久津から声を掛けてみた。
「こんにちは!」
「ひっ!」
説教していた中年女性は、床から5センチほど飛び上がると、説教相手を押し除けると、慌てて部屋から逃げ出した。拍子に足がもつれて転ぶと、畳を這いずり
「誰か!助けて、侵入者が!」
と叫ぶ。
押しのけられた相手は、侵入者側に盾として中年女性に配置されたが、逃げようとせず、寧ろ中年女性を守るよう、阿久津の前に立ちはだかる。阿久津のカンがドンピシャ当たる。説教相手は真弓であった。女性を庇いながら、真弓は侵入者の正体気付き、呼ばれて現れた警備員も、幸運なことに松崎だった。

「いや、この女性が、真弓さんに乱暴してたモンでつい」
と事情を説明しながら、阿久津は内心、ラッキーとほくそ笑んでいた。
呆れて困った顔をする松崎と、憤慨する中年女性。普段着の真弓は、いつぞやの能面である。
(この女性が、松崎さんから聞いた早川さんの妹か?)
と阿久津は察したが、時既に遅し。相当心象を悪くしたらしく
「礼儀も知らない者を、客だなんて認めません。だから下級の者は」
と、早川にその旨を言い付けるために退室。真弓は小さくお辞儀をすると、能面のまま出て行った。
ため息をつく松崎に、阿久津は笑って誤魔化すが、縁側の無い部屋に阿久津を案内すると
「勘弁してくださいよ、ホント。あの方は旦那様の妹様で」
と、阿久津の推察を肯定した。その上で、松崎は口の横に手を当て、反対の手でコイコイと阿久津を呼ぶと、擦れる程の小さな声で
「この家のお局様なんです。だから阿久津さんが何かすれば、お嬢様が叱られるので、どうか大人しくしていてください」
隣の部屋をツンツン差して、人差し指を口に当てる。
(隣で聴いてるのか)
と、阿久津は松崎のジェスチャーを解釈する。
ということは、折角松崎や真弓に会えても話しは出来ないと、阿久津は目算が外れてガッカリするが、通された場所が仏間のため、とにかく仏様に手を合わせた。雨と風の音以外は、何も聞こえない室内。
松崎は、仏壇の下の引き出しから線香を出し、阿久津に渡すと、ロウソクに火を灯す。渡された線香に火を点けると、細い煙が立ち昇る。りんが澄んだ音を出した頃、阿久津は仏壇の花が、菊じゃないことに気が付いた。
「菊じゃないんですね、花」
「奥様が好きだった花なんです」
阿久津は、惺や高貴に比べて花の種類に詳しく無いが、それでも知っている花、白と黄色のフリージアである。鴨居に飾られている遺影の内、真弓に似た女性を見つけ、早川の奥様が交通事故で亡くなった旨を思い出す。
「さっき真弓さんは、何やってたんですか?」
「手荷物検査ですよ、お嬢様が部屋から出る時は、服以外何も持つなと」
「は?」
「この前、お嬢様が斐川さんとふたりきりで外出した日があったでしょう? あの日騒ぎになって、旦那様がお嬢様にお聞きななると、お嬢様は前日と当日、斐川さんと阿久津さんの、電話番号書いたメモを持ち、外出したことが発覚しまして」
「それだけで?」
声が大きくなる阿久津に、再度人差し指を口に当ててジェスチャーをする松崎。阿久津を呼び寄せ
(でも手荷物検査は以前からしていて、メモを見逃したのは自分のせいじゃ無く、お嬢様の悪知恵のせいだと言って譲らないんです。この前のシロップも、私が用意して真弓様にお渡したもので、あのお局様のお陰で、お嬢様は何一つ、自由が許されていないんです)
捜査書類を渡そうとした際、断ったのもこのためか、と阿久津は知る。なら、お子さんの写真を持ち出す際、あの妹さんに見つかっていたら、今頃どんな目に合っていたのか?
「ひどいもんだ」
阿久津はワザと大き目に声に出すが、松崎は必死にシーッとジェスチャーを繰り返した。ついでに松崎は、今日は妹に付き添うため、車は阿久津のためには使えないと説明。くれぐれも妹君に逆らわないように、と頼まれる。
(そういってもねぇ)
阿久津は、久しぶりに真弓の能面を見て、あの顔が作られた経緯の一端を理解したような気がした。

3・早川家の事情

再び阿久津が家政婦に呼ばれて、松崎をその場に残し、早川の待つ部屋へ案内される。と、早川は妹と話し中であった。妹は阿久津を見るなり、ゴキブリを見つけたような顔をして
「まだ話は終わっていません、出ていきなさい!」
と、汚いものを侮蔑するよう、命令する。
「彼は私が呼んだ。出て行くのはお前だ」
という、早川の言葉は妹には通じず、自分がルールであるが如く、兄にやらせたい事を主張する。
「賢兄様は我儘が過ぎます。何故早川のためを考えて下さらないのですか? 真弓の相手も、今回は沢渡の者ではないそうですが、何故早川から選ばないのです? 甥の和彦なら申し分ないでしょう。なのに、またあんな訳の分からない素性の、その上出来損ないと結婚だなんて」
「和彦はまだ10歳だろう?」
「では、和彦を養子にして頂きます。でもそれは孝兄様がダメだと反対するから、仕方なく和彦と婚約させろと言っているんです」
(なんなんだこの会話は)
もしかするとワザと聞かせているのかと阿久津は疑う。聞かせたく無い話しなら言わなければいいはずである。そんな阿久津を、妹はちらっと見る。
「真弓も騙されたとは言え、真弓のことばかり考えず、少しは早川のために、傷モノの年上と婚約させられる和彦のことも、どうか考えてあげて下さい。もし賢兄様が、和彦を養子すると言って下されば、孝兄様がどんなに反対しようと、私が何とかしてみせると、申し上げているのに」
何を聞かせたいのかは分からないが、妹の我儘振りは、相当だと言うことは理解した。
「真弓だって、ろくでなしと幸せだったんでしょう? ならこの家に連れ戻さずに、そのまま放っておけばよかったんです!」
「やめなさい、客人の前で」
その時、阿久津は早川が怒る姿を初めて見た。

妹は臆さず畳み掛ける。
「着物なんて幾らでも作ってあげればいいでしょう? あんなお下がりばかり着てみっともない」
妹は阿久津から顔を背けたまま、瞳だけを目尻に寄せ、汚物に集るハエを避けるよう態度をとる。
阿久津は、早川が面会場所にわざわざ早川邸を選んだのは、何か意図することがあるのだろうと思っていた。しかし、阿久津は早川とも、早く話がしたいのだ。
「先ほどは失礼いたしました。妹様とは存じませんでしたので、大変申し訳ございません」
阿久津は妹に対し正面を向き、姿勢を正してそう告げて、お尻から体を曲げて45度傾斜する。阿久津の態度に、妹は多少気が変わったのか、下賎な者にも寛大であるかのように振る舞った。
「まあ、貴方も真弓に振り回されて大変でしょう。今、着物を作るのを辞めるなら、これまでに掛かった費用と慰謝料として、私がいくらでも依頼して差し上げますよ」
機嫌の良さげな妹と、その様子を見守る早川。阿久津はあくまで仲介である。本来、作家に依頼があれば、依頼内容を正確に伝えた後、作家が受諾するかを決めるもの。だが
(人を見下す事が、機嫌が良くなる条件とはね)
阿久津は妹の本性を見定めながら、出された提案に返事をする。
「斐川にご依頼頂きましたこと、非常に有難く思います。私に異存はありませんが、ただ…」
阿久津がひとこと付け加えると、妹は鬼の形相を現した。こちらに条件があるだけで、敵だと判断するらしい。阿久津は、出来るだけ和かな笑顔を作ると、惺の営業として対応する。
「斐川がなんと申しますか」
「なんですって」
明らかに臨戦態勢に入った妹に、阿久津は飄々と説明する。
「申し出は大変有難いものですが、ふたつ問題が御座います。ひとつ目は、最初に受けた依頼を、こちらの都合で反故にすること。これは依頼に対し、作家の対応がどうであるか? 今後の製作活動に関わる、重大な問題です。ふたつ目は、大体において作家と言われる類の人物は、大抵変わっているものです。斐川はその中でも、非常に変わった奴でして…気に入らない依頼は全て断ってしまうのです」
「私の依頼が気に入らないと?」
妹はふたつの内容に対し、阿久津が重要だと言っていることには、まるっきり無視をした。
(それを別としても、惺はまず断るだろうし、なにより俺が気に入らない)
阿久津は惺の意見を聞くまでもなく、独断で依頼を無為にした。
「いえ、若い女性に弱いんです」
感情では無く、相手が覆せない理由で断るために、阿久津は惺を利用した。が、惺も断る理由に文句を付けないことを、阿久津は経験上知っている。妹は、阿久津の言葉の意味をすぐに理解できなかったらしい。しばらくの沈黙の後、ようやく意味を理解をすると
「…なんて失礼な!」
肩を震わせ、頭から怒りを噴火させている様は、顔に新たな溝が生まれることも、すっかり忘れているようだった。
「阿久津さん」
それまで黙って見守っていた早川が、阿久津に制止の合図を送る。
「申し訳ございません」
阿久津は一歩下がると頭を下げる。妹は怒りのあまり言葉を失い、消えない皺を刻印する。
「お前も早く下がりなさい」
早川にそう言われる事で、赤鬼と化した妹は、溶岩を噴出させたまま退場した。

=====
雨と風が口笛を吹く中、無言で佇む早川に、阿久津は話しを開始する。
「10歳の子供と婚約ですか?」
触れてはいけない話しかもしれない、とも阿久津は思う。が、今の早川の心情を考えると、阿久津が本当に聞きたいことより、遥かに話し易いことである。
「妹の子供は全員結婚していてね。早川の親族のうち、相手の居ない男子は、妹の孫で10歳しか居ない」
「養子は取らないんですか?」
「妹の子供らが、和彦以外は反対しているそうだ」
今の早川の返事から、それは何故かと追及することは、阿久津は残酷なように感じた。
「沢渡とは、一体誰のことですか」
多分、早川には聞いて欲しいことがあるかも知れないと、阿久津は別の話しを進める。
「亡くなった妻の旧姓だ。妹は妻のことを、今でも誤解しているんだよ。真弓に対しても、それが原因で余計にキツく当たってしまうことがある」
つまり、妹は奥様を嫌っていた。真弓さんにも、その余波が届いているらしい。だとしたも
「なぜ妹さんがここに?」
「妻が亡くなって後、まだ幼い真弓を誰が面倒を見るか。この家を誰に任せるのか? 家政婦に任せるより、妹は子供は既に家を出ていて、主人も家に帰らないと。この家は兄が継いだのち、私が譲り受けたものだが、妹は自分の実家でもあると言うんでね…。当時はまだ、妹の妻に対する感情を知らなかった」
肉親だからこそ切れないものが、人を陥れて行く、と言うことかも知れないが、阿久津は思う。
「ところで、今日はデザインの報告して頂けるとの話しでしたが」

唐突に話しが変わり、焦る阿久津。と言うよりも
(あのババアにあれを見られたら、それこそヤバい。真弓さんの外出禁止どころじゃ無いかもしれない)
そっちの方が問題だと気が付いた。
「いや、実は今回のデザインが我々が見ても少々突飛なので、真弓さんと一緒に仕事場に来ていただいた時に確認して頂くつもりでしたが、なかなか難しいようですので、念の為確認して頂こうと思っていたんですが」
実は、早川さんが反対すれば、惺もデザインを思い直すことがあるかもしれない、と阿久津は思っていた。が、あの赤鬼のお陰で、その計画を白紙化する
(今日は台風で、濡れたら大変だから、持って来てないとでもいうか? いやいや、それは流石にまずいだろう)
ワザとらしさの加わった阿久津に、早川は気付いたか、阿久津の言うことの全てを信じた訳では無いだろうが、特に理由は追求せず
「着物は以前お話した通り、真弓が望むものが出来れば、それで問題ありません。一緒にお邪魔するとお約束したのも、阿久津さんが心配された通りのことを、考えての約束でしたが、私は真弓を信じているし、阿久津さんも、斐川さんも、そのような方では無いと信じています。井荻君も同じでしょう」
その物言いに、こちらの態度の不自然さから、何か調べていることは、早川さんも分かっているかも知れないと、そう考えて行動したほうがいいと、阿久津は解釈する。

だから今日は余計に聞き難い。
ご主人と子供に関することは。
早川は妹に対し怒ったように阿久津にも怒るだろうか?
だが、傷付ける覚悟で聞かなければ、わからないこともある。
雨は一層強く、波を繰り返し、外壁を揺らし叩き突ける。

本当に厄介な案件だと、今更言っても仕方ないが
「真弓さんの外出禁止は、妹さんの提案ですか?」
阿久津はそれ以外をストレートに聞いてみる
「それについては私からは話せません。早川親族の専任弁護士がいるので、私から連絡しておきますから、彼から話を聞いて下さい」
事務所の住所と電話番号を渡される。
ある意味、目的を果たせたとおもった。早川に聞き難い以上、弁護士になら遠慮は要らない。
なら、早川から見た井荻さんは、一体どう写って居るんだろうか?
惺に情報収集を任せているにしろ、阿久津も、早川さんと井荻さんの関係を知って置く必要がある。
「信頼されているのは非常にありがたいことですが、井荻さんもお忙しいんでしょうか?」

流石に警戒する早川に、逆に阿久津はお道化て見せる。
「実はこの前、工場に伺ったんです。花嫁の衣装ばかりで、花婿の衣装はどうなっているんだと和裁師に聞かれたので。その時借金取りと間違えられて、追い出されてしまいまして。先ほども妹さんに、泥棒だと人を呼ばれてしまいましたし、見た目や噂はその通りでも、真実では無いと承知しております」
まず、自分が大した人間では無い旨を明かし
「そんな私が、人のことをどうこう言うのも失礼であると、余計なお世話だと分かった上で、あえて申し上げさせて頂きます。もし自分に娘がいて、井荻さんの噂を知っていたとしたら、娘と見合いをさせただろうか?と思います。10歳のは甥と婚約させるのは流石に無茶だと思いますが、好き合っている訳でも無い、お互いに無関心に近い相手。恐らく早川側にはデメリットしか無い。そんな相手と、どうして婚約させるのか? 妹君を指示する訳ではありませんが、止めたくなる気持ちは、分からなくもありません。私も斐川も純粋に、真弓さんをただの依頼者では無く、友人として理由が知りたいと、常々考えておりました」
恐らく惺も、今述べた言葉に対して異存は無いだろうと、阿久津は確信の元、惺の名前も付与をした。
(本当に信じてくれているのなら)
ある意味、阿久津のテストとも言える問いに対し、早川はどう答えるのか? 今だから出来る質問。阿久津は怒られて追い出されてもおかしく無いと考えた問いに、早川はしばらく考えたのち、ゆっくりと回答する。

「妻が亡くなってから、真弓はずっと一人だった。たとえ紙一枚でも誰かと一緒にさせてやりたかった」
うな垂れて、それでも自分の選択は間違えていないと、自分に言い聞かせるよう早川は答えた。
阿久津には、そんな早川が小さく弱い、ただの娘思いの父親にしか見えず
「真弓さんなら、他にいくらでも良い相手がいるんじゃないですか?」
と、慰めるように聞く。すると
「兄や妹が、散々相手を連れて来て、真弓に会わせた。が、真弓が承知しなかった。井荻君とは偶然知り合い、試しに見合いをさせてみたら、真弓が初めて、条件付きで結婚してもいいと言ったんだ。今まで、何度も見合いをさせたが、こんなことは初めてだった」
つまり、早川さんも井荻さんの全てを信じている訳では無く、真弓さんを思えばこそ、井荻さんを信じることにした、ということかと阿久津は理解した。
早川さんもただの親で、何処までも心配症で、嫁に行かせたいだけなのだろうが、それは普通の家庭の場合である。
「いいんですか? あの工場は、素人の私が見ても、損失の方が大きいだろうと思われますし、会社や親族の方からすれば、まず反対でしょう」
阿久津の率直な意見に、思わず苦笑する早川。
「確かにそうだ。あの工場は大損かもしれないな。だがそれ以上に、私はどうしても資産を渡したくない人物がる。そいつに渡すくらいなら、工場と言わず、今すぐ全てを寄付してしまっても、全部無くしても構わないと思っている」
早川の思わぬ覚悟を聞き、阿久津は只ならぬ決意を知る。
「相手は妹さんですか」
笑って誤魔化す早川。
(間違っているなら否定するはず。早川さんの目的はそれを回避するための結婚か?だとしても)
「そこまで考えていたなら、好きな男との結婚を認めてやればよかったんじゃないですか?」
阿久津は遠回しに、真弓が結婚していたことを知っている旨を、早川に明かした。阿久津はずっと考えていた。妹とは違う意味で、早川を責めているのでは無く。ただ真弓の心情を考えると、早川さんが住者との結婚を認めていたら、財産を無くしても、真弓さんの笑顔は守れたのではないだろうかと。
「そうですね、それが出来れば一番良かった…」
早川は特に驚くこともなく、ただ寂しそうに笑って答えた。
雨も風も勢力を増し、昼には関東を直撃する模様と、今朝のニュースで言っていた。
「それでデザイン画の方は?」
早川から伝えたい事は終わったようだ。建前上の本題を再び聞かれるが、今は取り繕うことも、慌てることも無い。阿久津も無理をせず、今日はこれでお開きにする。
「お見せしようと思っていましたが、今日は辞めて置きます。気が向いたら真弓さんと一緒に、是非アパートにいらしてください。きっと驚きますよ」
(色んな意味で)
と付け加えたい所を、言うのを辞めた。阿久津はデザインよりも、真弓の笑顔を早く早川に見せたいと思った。
「それなら、後日のお楽しみとしましょう」
早川は阿久津の笑顔に呼応して、純粋に期待していいことなのだと予感する。
ここでは子供のことは聞けなかったが、早川さんは、真弓さんを思って結婚させるのだ。阿久津には、それが分かっただけでも収穫である。
真弓さんの幸せは、早川さんの幸せで、これで捜索に専念していいと、自分の行動に、自分が許可を与えたのだ。
松崎に見送られて、阿久津は早川邸を後にする。
貝塚の親族に聞いた胡散臭い弁護士。
問題の弁護士は、恐らく何か知っている。はず。
とにかく弁護士事務所は隣り駅。
役に立たない傘を畳むと、金魚が泳げそうな道をザブザブと進んでいく。

惺が工場へ行く

台風の最中に稼働する工場を、井荻は点検のために廻っている。端の外れたトタン屋根が、風煽られガタガタ鳴る。雨漏りする場所の配線が、漏電する危険がある。自己流の補強では不安があるため、井荻は修繕案の書類を作成、上に提案するよう願い出た。が、現在の管理者は、これまでに幾度と無く、井荻の提出するあらゆる書類を破り捨てた。理由は、業績不振の会社では、提出するだけ無駄である、と。
屋内の設備を周り終え、外周りに向かう途中、ふと見渡した作業場で、工員がひとり、足りないことに気が付いた。近くに居た警備員に尋ねてみるが、気が付かなかった、とのことである。
(嫌な予感がする)
今日は特に、雨と風の唸り声で、通常の声も聞き難い。井荻は急いで、心当たりへ直行する。目立たない場所。人に見つかり難い場所。倉庫は外にあるため、一度屋外へ出る必要がある。傘を差さずに、走って倉庫にたどり着く。とその時、倉庫の横の離れにある物置きから、微かに聞こえる声らしき音に気が付いた。

「頭のイカれたサルばかりかよ、ここは!」
井荻がドアを開けた瞬間見たものは、うずくまる工員を、容赦なく蹴り上げるネクタイの男の姿である。
「辞めろ!」
井荻が叫ぶと男は驚き、工員を踏みつけていた足を引っ込めた。が
「ちっ!」
現れた人物が井荻と判ると、ネクタイは舌打ちする。更に足元で、あー、あーと苦しそうに呻く工員につばを吐きかけた。
出口はひとつ。立ち去ろうとするネクタイの前に、井荻は雨の中を立ちはだかる。
「鹿嶋さん。今度工員が、何か問題を起こしたら、まず私に言って下さいと伝えたはずです!」
音に掻き消されぬよう、大きな声で伝える井荻。逆に、鹿嶋と呼ばれたネクタイは、井荻から洩れた雨に打たれつつ、暴行時とは打って変わって、冷めた表情で井荻を見る。
「別にアレ、問題なんて起こしてねーよ。いくら言葉で言っても通じねーから、体に覚えさせるしか無いじゃん」
罪悪感のカケラも無く、子どもが虫を痛ぶるように、他者に暴行を行える者。初めて暴行現場に遭遇した時、こんな人が居るのかと、逆に井荻の方が驚愕した。彼らにとって、工員は人では無い。機械のパーツのひとつなのだと、井荻はその時理解した。あーうーと言う呻き声に、井荻はハッとして、倒れている工員に駆け寄り、怪我の状態を確認する。
今日はいつもより更に酷く、痣どころの話では無い。井荻はケガをした工員を抱えて事務所に戻ると、病院へ連れて行く旨をスーツに伝え、社用車の鍵を要求した。
事務員たちは、平静では無いものの、そのまま作業を続けている。以前は何か起こると、事務員たちがざわついて作業が止まる。その度スーツは、言葉を発する必要が有った。
「了承などしていませんが」
スーツの返事に、井荻は答えず、工員と嵐の中を出て行った。
原因は、先に戻って来た鹿嶋だろうと、その場の全員が分かっていた。だが同様に、スーツが鹿嶋を咎めないことも知っている。スーツにとって、やる奴もやられる奴も同じである。井荻も事務員も、この管理者のやり方を理解して、今はお互いのため、どちらも非難することは無い。
それはこの均衡が、あえて変化を求めずとも、いずれは終わることが分かっているから。スーツは、鹿嶋の暴行や井荻の反発を、終焉までの流れのひとつと捉えており、余程のイレギュラーでも起きない限り、既に行き着く先が決まっている事象に、わざわざ言うことを聞かせる必要性を感じていないのだ。

そんな時、都合良く事務所のブザーが鳴り響く。それを合図に、事務所はいつも通りの空気に戻り、白シャツの男が、来訪者の対応のために席を立つ。
相変わらず雨と風は吹いたまま、プレハブの小屋を揺らしている。工場は今日、来訪者の予定が無く、納期の迫った案件も無い。つまり飛び入り営業に違いない。
スーツは、来訪者をそう予測し、自分は対応する必要が無いと判断した。鍵付きの引き出しから、いつものチェック表を取り出すと、鹿嶋の項目にバツを付けると、もう一つの項目にマイナスを付ける。他のマイナスを確認していると、スーツの机の前に、白シャツの男が立っていた。怪訝な顔で、白シャツを見るスーツに対し、白シャツも、同じ様に怪訝な顔で、来訪者の要件を報告する。
何でも、着物を着た不審な男が、井荻に面会希望とのこと。この台風の中、わざわざタクシーに乗り、井荻に会いに来た、と言うのである。

=====
阿久津は工員に関して、顔は覚えていても、名前は名字しか知らないと言っていた。電話帳から電話番号を調べるには、住所か姓名両方が分からないことには難しい。姓を頼りに、しらみつぶしに電話を架けて、聞いてみることも出来なくは無いが、こちらが何者かを名乗った上で、正統な理由を説明しなければ、不審がられて警察に届けられる可能性がある。工場側にも、こちらの行動を知られたくないこともあり、工場周辺での大っぴらな聞き込みも、今は控えるべきだろうと考えた。なら正攻法で。

惺が着物屋として、井荻に再びアタックするには、正統な理由が必要である。井荻に会いたいだけなら、井荻の自宅に押し掛ければいい、と、惺は阿久津に提示した。しかし阿久津としては、あのヒョロ高い、ムカつくスーツの男を、是が非でも惺に会わせたい、と言う、個人的な欲望がある。
「いいか。相手は身なりと肩書で、人の価値を決めている、大馬鹿野郎だと思え!」
阿久津は本当は、自分が工場へ行きたかったため、あいつには絶対舐められないようにしろ!と、惺にしつこく念を押す。今日の訪問の目的は、井荻の真意を聞くためである。だが、阿久津はそれ以前に、スーツの男の嫌らしさ加減を、惺に理解させたかったようである。ならせめて台風の日は避けたいと惺は考えた。しかし阿久津は、自身の早川家への訪問日と、惺の工場訪問日を、別の日に設定することを許さなかった。それは何故か?
「もしどこかで何かが狂ったら、ふたりに話しを聞くどころか、捜索自体バレる可能性があるんだぞ。俺は早川さんに併せて列車の時刻を遅らせた。だからお前も同じ日に、井荻さんとお友達になってこい!」
無茶苦茶だと惺は思う。阿久津の本音は、自分ひとり大変な目に遭うのが悔しいゆえ、惺も道連れにしたいのだ。だが阿久津の言うことにも一理ある。もし阿久津が早川邸で失敗すれば、今後、井荻さんと話をする機会を失う可能性が無くはない。お陰で惺はこの台風の中、一張羅で出掛ける羽目になったのだ。
暴雨の中、ワイパーの動きに併せて、ガラス越しの視界が見え隠れする。カシャン、カシャンと料金メーターの表示額が変わる度
(洗濯代も交通費も、後日阿久津に請求しよう)
と、惺は心に誓っていた。

料金を支払い、タクシーを降りる際、惺は工場の入り口から出て来た、別の車と入れ違う。ザザ振りの中、以前に追い返された扉の前で、横に設置されたブザーを押した。しばらく待つと、白シャツの男が現れて、井荻は今日も不在と言う。井荻不在に関して、惺は大して期待をしていなかった。
(約束した訳じゃ無し、その上今日は台風だ)
白シャツに井荻への言付けを頼むと、管理者に聞いてくるとのことである。惺は
(言付けに承諾がいるのか?)
と言う疑念を抱えるが、以前と違い、要望を素直に聞いてくれるため、疑念の方はスルーして、工場見学を申し込む。
惺は1度、工場の中を見てみたいと思っていた。現状が、阿久津の守りたかった本来の形では無いにしろ、惺が知っている工場とは、阿久津の話しで聞く工場である。実物を自分の目で見て確かめること。惺にとって、芸術や百聞より大切なことである。
風音と雨音の主張の中に、機械音が掻き消される。足元にはくるくると巻いた、薄い金属の破片が、土に混じって落ちている。しばらく待つと白シャツが現れ、許しが出たと報告した。阿久津の見立てで、無事内部侵入に成功する。

カランコロンと下駄を鳴らして、惺は工場内を散策する。工員たちは、聴き慣れない音の接近に、目の端で確認する者と、無関心の者がいる。誰も侵入者を止めず、話しかけることも無く、微妙な空気が漂っている。しかし惺は意に介さず、自分の知らない世界に対し、全てが輝いて見えている。機械類の重厚感。柔らかく削られていく金属。生み出される形と、光る火花。見るもの全てが本物だ。

工場の事(★向坂→井荻)

惺が異空間の光景に見惚れていると、背後から声を掛けられる。
「見学をご希望と伺いました。失礼ですが、どちら様でしょうか?」
惺が振り向いた先には、スーツ姿の背の高い男が立っていた。その男は惺に近寄り見下すと、上から下まで観察する。
(阿久津が言うのは、この男か)
惺は非常に分かり易い不快を得る。
「こちらの工場の井荻社長の知り合いで、斐川と申します」
しかし追い出されることを恐れた惺は、出来るだけ感情を出さずに回答した。が
「どのようなご関係でいらっしゃいますか?」
惺は知り合いだと伝えたが、スーツは更に詳しい説明を希望する。阿久津乱入の件があるが、惺は迷わず返事をした。
「井荻様の婚約者様の婚礼衣装の製作を依頼されました。その途中経過のご連絡と、製作にあたり作品イメージの参考になるかと思いまして。本日井荻様は不在と先ほど伺いましたが、折角なので工場の見学をお願いした次第です」
「左様ですか。でしたら出来れば今後、工場への連絡は控えて頂ける様にお願い致します。それと、イメージ参考の見学であれば、制作を始める前のデザインの段階でお越し頂けると、こちらとしても非常に助かります」
スーツの返事は道理である。しかし惺の答えに後付けをする形で、歓迎しない理由を加えるやり方に不快感を表した。
「これは失礼を致しました。私、この工場に作業発注させて頂いております向坂と申します。こちらの工場の親会社からの出向で、現在井荻の代りに私が経営管理をさせて頂いております」
スーツの男、向坂の説明は、惺の予測より事態が深刻であると知らしめる。
「工場内が色々と情勢不安定なので、工員には部外者に工内の事は話さないよう私が指示しました。見学は私の方で制限をさせて頂きますが、他のことであれば、色々教えて差し上げますよ」
=====
井荻の悪口を言う向坂(以下悪口に変換)
=====
向坂は見学自体を歓迎してはいなかった。だが来訪者に対する扱いは、状況に応じて違うらしい。
井荻不在であるのに、狼藉者の着物屋の片割れに、わざわざ向坂が対応するのは、向坂の方で何か『色々』言いたいことがあるのだろう。
「井荻さんは、今日も不在のようですが、忙しい方なんですね」
「さあ、どうでしょう。ただ、現在、工場のことは、私が任されておりますので、井荻が忙しいのだとしたら、工場のことでは無いと思われます」
向坂は井荻不要と宣言する。その不要人物の知り合いに何が言いたのか?と惺は思う
「向坂さんは、井荻さんが忙しい理由をご存じ無いのですか? 井荻さんに出欠制限が無いとしても、管理者であれば、社員の休む理由くらいは、知っておくべきではありませんか?」
「彼は前管理者ですので、常識的なことが分かっていれば、私がいちいち休む理由を確認しなくても、自分で判断出来るでしょう」
向坂は井荻のことは自己の問題で、自分に責任は無いと放置する。
(つまり向坂は井荻さんの休む理由には関心が無く、話したいことは別にある。どちらにしろ、自分の話したいことがあれば勝手に話すだろう)
と、惺は自分が聞きたいことを聞く。
「向坂さんは、いつからこの工場へ」
「工場が、早川グループへ売却されることが決まった頃、ですかね」
「どうしてこの工場へ」
「この工場の経営状態のせいです。子会社になった当時は、まだ優良でしたが、それは前経営者のご両親が経営されていた頃の名残りで、ここ数年は右肩下がり。井荻の実力が知れたので、経営交代の話が出ていたのです。ですがその前に、早川に売却される事が決まったので、井荻は据え置き。私はそれまでの繋ぎです」
「経営交代?閉鎖ではないのですか?」
「自分の会社が傾いたら、まず努力するでしょう?安易に閉鎖は出来ません」
(じゃあ潰れるって話はデマなのか?
いや、いくらなんでもデマに踊らされたからって結婚まではしないだろ…)
「それは大変だったでしょう。慣れない会社で、知らない人達を相手に、経営再建を命じられるとは」
惺が、表面的な向坂寄りの発言をすると、向坂は顔を歪ませニヤッと笑う。
「いえ、大したことは無いですよ。この工場は知らない会社でもありませんし。私からすれば、何故ここまで経営悪化させられるのかが不思議です」
知らない会社ではない、と言うことは、向坂は以前からこの工場を知っている。
それに向坂のやり方を親会社は肯定し、井荻さんは経営者として見ていない?

「それにしても井荻さんは、欠勤続きなのによくクビになりませんね」
「井荻の同行については私の管理外です。ただ欠勤続きでもクビにならない自信が井荻にはあるのかもしれません。なんといっても早川のお嬢様の婚約者ですから」
向坂の批判に躊躇はない。

「実はその欠勤続きについて、お伺いしたかったのです。井荻さんは工場の存続のために結婚すると聞きました。だとしたら早川のお嬢様は井荻さんにとって、工場の存続が掛かった大事な人のはずです。なのにその方に同行すると約束した打ち合わせに同行されず、工場にお電話をしても常に不在でした。先ほども工場は閉鎖ではなく経営交代だと伺いましたし。もし工場が閉鎖ではなく経営交代のみで、買収が井荻さんの目的であるのだとしても、井荻さんが本当に大切なのは、工場の存続なのでしょうか」
質問とも感想とも言えない惺の疑問は、井荻に問いたい本音である。しかしこの場に居ない井荻の代わりに、向坂は自身の見解を披露する。
「違いますよ。経営交代の先にあるのは、合併、吸収、言わば前向きな消滅です。ですが井荻はこの工場のみに拘りがあるため、組織の中に吸収されることより、個として工場を存続させることを望み、そのために婚約したんです。それに井荻の大切なのものは婚約者じゃない。彼が結婚するのは工場を買収するための金です。今日出掛けている理由は判りませんが、井荻が最も大切なのは、早川のお嬢様では無く、金を握る早川理事のご機嫌でしょう。理事はうちの取締役とも仲が良いそうですし、理事のご機嫌さえ良ければ、娘を蔑ろにしようが何も問題ないのかもしれません。まあ彼の気持ちは分かりますよ。娘と言っても後家のお下がりですから」
「!」
向坂の悪意は真弓に対しても向けられる。
「それに、井荻が工場に寄り付かないのも、用事があると言うよりは、私の顔が見たくないのでしょう。井荻を振った女は、今は私の妻ですし」
惺は愕然とする。阿久津から聞いた噂話を思い出す。
(女取られて経営不振で)
驚いた顔の惺に、向坂は意外だと言う顔をした。
「おや、営業の方から聞いていませんか? 婚約者から見限られた、哀れな出来損ないの話を」
向坂は全身でほくそ笑む。
「井荻には親の決めた婚約者がいましたが、4年前あっさり彼を捨てましてね。その影響で工場が右肩下がりになったのかは分かりませんが。その後経営交代の話が浮上して、井荻は社長に泣きつき、たまたま居合わせた理事の、娘についた汚れを拭く雑巾として拾われた」
惺もたしかにその噂は聞いている。しかし同じ話でも向坂からでは、ただただ不快なだけである。
向坂は惺の顔色を見て、自身の優越感を満たしている。
「井荻はつくづく運がいい。羨ましい限りです」
惺が逃げ出そうかと思った時。

「井荻さん!」
廊下寄りで作業する工員が、井荻を呼び止める声が聞こえた。
「井荻さんに、お客様がいらしているそうですよ」
台風による騒音のためか、ワザと大声を出してくれた工員のお陰である。
救われた、と惺は思った。
「どうやら、不在じゃないみたいですね」
惺の言葉に対し、向坂は平静に戻っていた。

作業着姿の井荻登場。→向坂退散

井荻は最初、惺が誰かが気が付けず。向坂の紹介により、ようやく思い出したようだった。惺も作業着いかんに関わらず、人の顔が覚えられないため、そこはお互い様である。
惺は井荻に時間が欲しいと伝えるが、井荻より先に向坂が返答した。
「問題ありません。どうぞごゆっくり」
向坂は自身の決定権を、どうしても誇示したいらしい。
井荻が向坂に場所移動を希望した。了承されて井荻の後について行くと、休憩室らしき小さな部屋に案内される。惺は井荻と挨拶以外の話しをするのは、実際今日が初めてになる。惺はまず、阿久津が先日、工場でご迷惑をお掛けしたことをお詫びした。しかし井荻は、そのことに関しては特に触れず、早々話を切り上げる。
「本日はご足労いただきまして誠に恐縮です。早速ですが、以前こちらからお願いした件について、今後の連絡は不要です」
惺は焦った。元々連絡不要と言われていたのだから当然といえば当然だが、わざわざ場所変えをしたのは何なのか?
「ですが打ち合わせでは…」
訳わからん、と思いつつ、引き伸ばしを試みる。
「打ち合わせでは、確かにそうお話ししましたが、あの時、阿久津さんは真弓さんの立場を尊重したため、あのような申し出をされたのだと考えておりました。私自身はおふたりへの危惧はありません。彼女の望みに叶う着物が仕上がっていてくれれば良いのです。どうかご安心を」
井荻は身もふたも無い説明で、サクッと話を終わらせる。だが惺は、工場の現状と向坂について井荻がどう思っているのか、を聞き出すために来たのである。ようやく捕まえた魚を逃す訳には行かない。
井荻の話しぶりから周りくどい説明を省き、聞きたいことを聞いてみる。

「あの、失礼ですが、今日は不在と聞きましたが、どちらに行かれていたんですか?」
「野暮用です」
(おい!)
思わずツッコミそうになるところを、惺はグッと辛抱する。ここまで大っぴらに隠されると、逆に惺が動揺する。
「あ、あの、余計なお世話とは、分かってはおりますが、ご婚約関係者の私から拝見しまして、野暮用には台風でもお出掛けになっているのに、婚約者との約束は後回し。と言うのは、世間的にも、流石にちょっと、いかがなものかと思われますが…」
惺は営業トークや会話の操作は苦手であり、仲介などの話術類は、全て阿久津に任せている。ゆえに偵察を惺に任せる、なんて指示すること自体が間違いなのだと、自分の至らなさを擁護する。そんな惺の言いたいことは、井荻に一応伝わったらしい。
「先ほど、向坂とお話をされていたようですが、向坂の話も工員の話も真実です。私も真弓さんと同じで、この結婚で得られる「目的」以外は、何も期待していない。噂通りです」
率直に答えを返してきた。
「お聞きになっていたんですか?」
動揺する惺
「いいえ。ただ阿久津さんがご存知だろうと」
(そりゃそうか…)と納得する。
阿久津が井荻について調べていたのは、依頼を受ける前。その頃の工場は、噂は仕事中でも公然と流れていたため、知らない方が不自然である。
「つまり、阿久津の危惧に対する井荻さんの同意は、真弓さんへの建前だと」
「ええ」
と井荻は断言する。しかし惺は信じない
(いや、違う。少なくとも打ち合わせの時の井荻さんは本気だった)
と惺は当時を思い出す。だが今の返事も本当で、何処かで変わったのだと理解する。
何処で、何故変わったんだろう?
惺が聞こうとする前、井荻は捕捉を追加する。
「私は、真弓さんの行動に関して、一切の制限を設けるつもりはありませんし、その資格もありません」
資格、と言うフレーズに惺は反応する。が、井荻はそのまま続けて語る。
「例えば斐川さんが気にされていた、真弓さんと斐川さんのふたりきりでの作業見学ですが、もしなりゆきで、ふたりが好き合うようになったとしても」
「は!?」
井荻の突拍子も無い例え話しに、惺は脳みその奥から変な声が出た。
「私は、関与するつもりは無いんです」
そんな惺に構わずに、井荻は話しを続けるが、井荻の目の前で、おおよそ人が作れる喜怒哀楽の内、何処にも分類できない変顔に気付くと、流石に井荻もキョトンとした。
「ちょ、いや。いやいやいや、ホント井荻さん何言ってんですか!俺には、は、花さんと言うプラトニックな人が…」
惺は変顔から顔を真っ赤にして、井荻の例えを否定する。井荻は、異常に動揺する惺に驚くが、惺の事情を理解すると、少し和んだ顔になる。
「失礼しました。今回の結婚は、真弓さんの承諾あってのものですが、契約自体は、私と真弓さんとの約束と言うより、私と早川さんの間での契約です。それこそ金目当ての、従業員と会社のための契約に他ならない。ですから真弓さんが誰と付き会おうと、私が関与するつもりは無いのです」
言葉が優しくなる井荻。
惺の慌て振りに、多少力の抜けた井荻は、惺のために隣の給湯室でお茶を用意する、惺は、井荻から工場を守ろうとする信念より、諦めに近い感情を感じ取る。それに向坂の声にならない笑い顔を毎日見るのはさぞや苦痛だろうと同情した。阿久津からも今回限り『井荻さんとお友達になりたいわぁ作戦』を任命されている訳だし。
惺はまだ動揺しつつも、徐々に思考回路を働かせる。
(噂も向坂も真実で、でも一つ嘘がある。だよな?)
「そこまでして工場を守ろうとするには、何か事情があるのでしょうか?」
惺は井荻に寄り添い、任務を遂行する。
「お話をする必要があるとも思えませんが、貴方がたを、どうも巻き込んでしまっているようですので…」
井荻も惺に根負けする。惺のしつこい原因は、真弓の目的に関係すると思ったのかもしれないが。
一時期より雨風が弱くようになった気がする。
窓の外では、厚い雲のほか青空すら見えている。
「でも大した事情ではないです。この工場は親の形見で、本当は戦死した兄が継ぐはずだったんです。それが経営が、私に変わった途端にこのザマで。出来損ないの為に工場を潰されたら、亡くなった親も兄も浮かばれないでしょうから。親会社の役員に掛け合いに行った時、早川さんと知り合い、真弓さんとのお見合いを勧められたんです。私には丁度好きな人も、将来を約束をしている人も居ませんでしたし」
その頃には婚約者と破談していた。つまり、井荻さんはその当時から向坂のことは知っていた可能性がある。
しかし、井荻さんに当時の向坂のことを聞いていいのか?
向坂の顔を思い出して、腹が立ったために辞める。

「だとしても、実際結婚するのは真弓さんですし、真弓さんへの対応も、大切ではないでしょうか?」

井荻さんはそれだけ割り切っているとして、いくら早川さんとの契約だとしても真弓さんは? と惺は思った。だが井荻は
「真弓さんには、駆け落ちするほど好きだった相手がいたと聞いています。形式だけの婚約に特別な感情はないでしょう。その証拠に私が打ち合わせに来ないことを、真弓さんが気にしたことはありますか?」
「!…」
井荻の問いに、惺は言い返すことが出来なかった。確かに、真弓は一度も井荻が同行しないことを、気にしたことが無い。他にも一度も…もしかすると井荻さんはそのことに気が付いていた。
だがしかし

「ですが、井荻さんがそんな調子では、早川さんや真弓さんの気が変わったらどうするんです? 工場が早川へ渡る前に、このまま向坂に経営が任せられることなれば」
工場は潰れなくとも、井荻さんがクビになる可能性があるんでしょう」

「あのふたり。気が変わるようなことがあるんでしょうか?」
「!?」
井荻に逆に質問されて、惺ははっとした。
「早川さんと真弓さん。あのふたりにとって、この結婚は手段であって目的じゃありません。それは私も同じですから分かります。私が間違っていなければ、斐川さんが言う放置のままでも、結婚自体は破談にはならない、そう解釈しているんです」
思いも寄らない答えだった。
つまりこの結婚に、真弓さんには、絶対的な目的があるように、早川さんにも、揺るぎない目的があると井荻は言うのだ。

井荻さんは、早川の目的を理解していて、間違っていなければ、破談にならない確信があるのだと。

考えてみれば、惺が初めてこの結婚条件を聞いた際、真っ先に真弓の選択基準を疑った。その当事者である井荻が、旨すぎる話しに対し、疑念が湧かない筈が無い。
そして井荻は最初から、相応のリスクを覚悟して、もしくは既にリスクを受けている。ならそのリスクの中に、工場の変貌も入っていて、向坂を放置している、のだろうか?
だが井荻は最初と違い、今の諦めた様子からして、何かが想定外だったのだろう。
(だとしても、このままでいいのか?)
工場の体裁さえ存続出来れば、井荻さんはそれでいいのか?
従業員が変わっっても、親や兄から引き継いだ、大切な会社の経営方針が変わっても。自身が経営者で無くなっても。

前向きな消滅を避ける為の売却で

井荻さんの守りたかった工場とは、何だったのか?井荻さんは、何のために結婚する?

工場の変化は、向坂に経営を任せたクライアントの方針変更のためだと、惺は考えていた。
阿久津も同様。工場を元に戻すには、向坂を追い出すことを考えていた。
だから、井荻さんから早川さんへ話しをして貰えれば、向坂は何とかなると。それで工場を元に戻せると思っていた。

「井荻さんと早川さんの間での契約内容って一体何ですか?」
惺は、不躾とは思いつつ、それでも井荻に質問する。
「真弓さんと結婚する、ただそう言われただけです」
井荻も、ただそう答えた。
肝心なことは言わない。なら
「もう一つ、余計なお世話だと思いますが、向坂を本社に戻すことは出来ないんですか?」
ただの着物屋を超えた質問にも
「彼の動向を決めるのは親会社です」
井荻は淡々と答える。
「早川さんに伝えてみては?」
との惺の提案にも、井荻は答えられる範囲で回答する。
「経営がまだ早川に移動していないため、早川さんも安易に口を出せないでしょう。むしろ早川が口を出すことで、売却が白紙になりかねない。私ではどうにもできません」
と、現段階での自身の見解を説明した。つまり井荻も、向坂は自身ではどうにもならないと説明するが、何とかしたいと思っていることは確からしい。と、惺はその回答にホッとする。
しかしその傍らで、井荻は自身の考えを惺に開示することで、工場のことを諦めさせる方向へ導いているように、惺には思えた。
(お友達作戦失敗か)
====
工場を、ただ存続させるだけでいいなら、確かにこのまま何もしない方がいいんだろう。社員が代わり経営者も変わり、事業内容が変わったとしても、形だけは工場として残るだろう。

雨は再び振り返し、風も強くなり始める。
タクシーを呼んでも、この風の中を来るだろうか?
目を過ぎても、まだ雨は続くだろう。

真弓にあんな約束をさせて、よかったんだろうか?と惺は考えた。
成り行きとは言え、
守ろうとした井荻までもが、ほぼ諦めている工場を、真弓に守れと約束させた。
真面目な性格ゆえ、約束を守るためならきっと無理をするだろう

惺は井荻と話しを終えると、そのまま帰らず、ひとりで工場の外壁周りを散策する。と、裏口隅で休憩する、ふたりの男に気が付いた。そっと近寄ると、雨風の音で、男たちは惺には気が付かない様子である。休んでいたのは、惺の対応をした白シャツの男と、ネクタイ姿の男である。
「お前やり過ぎ。病院送りはまずいだろ」
「サルのくせに、オレのことを脅しやがったんだぜ? それくらいやらないと、口止めにならないだろ」
姿は確認できないが、声が聞こえる場所まで寄ると、嵐に気を許してか、遠慮無い陰口である。
「でも、井荻が止めに入ったんなら、上にチクられるかもしれないし」
「井荻だから大丈夫なんだよ。あいつは本社の連中どころか、早川にも相手にされてねーんだぞ? かまって来るのは着物屋くらいで、お下がりの女ですら、電話ひとつ寄こさねーし」
下品に笑う片方の男。対する相方は、呆れているような声色である。
「あんまり無茶すんなよ。やり過ぎると戻れなくなるぞ」
と忠告するが
「まあ、嫌なことをやらされる分、本社に戻るまでの期間、どこかでストレス解消しないとやってらんねーしさ」
と言うと、足音が聞こえ、離れていく。

考え込む惺。

(あのふたりは、本社に戻る予定で来ている。ということは、向坂も親会社に戻る可能性があるのか? そうなると、向坂を追い出したいだけなら、このまま早川へ権利が移行するまで待つ方が得策。だがその前に全てが変わってしまったら?)

早川に経営が渡されれば、元に戻る可能性があるのか?
否。
守りたかった人が既に変わっている。
連れ戻せた所で、もう以前と同じに戻る事は難しい。

井荻さんがどうであれ、今の工場は、少なくとも阿久津が守りたかった工場じゃないことだけは確かである。

食堂に入ると

吹き戻しの雨風に、帰りのタクシーを呼ぶため、惺は電話を借りがてら、今日も食堂に入店する。珍しい服の客を見て、店主は覚えていないのか、惺を初めての相手として対応する。惺も覚えられていることに期待していた訳じゃ無い。まあ、それでもいいか、と、定食を頼むと、店主は愛想良く返事した。
待っている間、先に入っていた客と、店主の話を聞くことにする。
「ダメだったんですか。説得」
「ああ、辞めるって」
客は井荻と同じ作業着を着ている。皿に添え付けのキャベツを盛りながら、店主はコンロの火を着ける。
「井荻さんが病院まで、一緒に付き添って行ったんだけど、怪我よりも心がさ。人が怖いって、震えて。井荻さん以外の人とは話しもしないし、俺らとも目も合わさなくなって」
(野暮用ってコレだったのか…)
惺は井荻のことを、ほんの少しだけ理解して、出されていた水を口にする。
「一時休職して、落ち着いてから決めてもいいと、井荻さんは勧めたんだけど、本人は頭を振るばかりで」
作業着の人は、既に食べ終わった皿を前に肘を突き頰杖をする。
「俺も最初、彼はウチで雇うのも正直難しいな、と思ったよ。何度教えても覚えないし、いつまで経っても要領が悪い。でも真面目で一生懸命で、ひとつひとつゆっくり教えてやれば、ちゃんと覚えてさ。他人の何倍も努力しているのは、みんな知ってるし、やっと誰にも聞かずに作業が出来るようになったって言うのによ」
視線は遠く、別の場所を見ているようだ。店主もカツを揚げている。
「いくら出来が良くても、ズル賢い人間より、何倍も信用出来る人だった。なのにアイツら…大人しい、真面目な人ばかり狙いやがって」
「可哀想に」
悔しそうな顔をする工員と、同情する店主。暴風の音の合間、チリチリとカツを揚げる音が聞こえる。
努力など無意味。履歴書を説明書として、機械を選ぶよう、人間を基本性能で選ぶ社会。確かに成長度などは、実際雇ってみなければ分からない、しかし。阿久津じゃ無いが、自分を含めて、出来損いにとっては、つくづく世知辛いものだと惺も思う。
「他に雇って貰えるアテはあるのかねぇ?」
揚げ立てのカツをまな板に置き、サクサクといい音を立てて切る店主。
「さあね。けど、一番辞めたく無いのは本人だろうし、その本人が、もう嫌だって言ってんだから、仕方ない」
「その新しく入った人って、本社へ戻せないの?」
「親会社からの命令だし、こっちの話しは、親会社に辿り付く前に消されてる」
「やっぱり、手を回しているのかねぇ」
店主は、惺の前にカツ定食を差し出した。愛想のいいその顔に、惺の再来をすっかり忘れていても、それはそれで良かったのだろうと、惺は良い方へ考える。
「誰とは言えないけどね。だっておかしいだろ?もっと出来ない奴だって居るのに、辞めさせる人間は、決まって障害者ばっか。しかも、変わりに入るのも、同系列からの障害者だぜ? 全員が全員そうじゃ無いけど、比率的に多すぎる」
(…。)
食事より、酒でも飲みながら話をしたかっただろうに、と思いつつ、惺が定食を平らげても、作業着の男は頰杖をついたままだった。惺はタクシーを呼ぶのを辞めて、店主に紙幣を渡すと、お釣りを貰わず店を出る。代わりに傘を差し、雨風を受け、下駄で歩いて駅まで歩く。

真弓さんが井荻さんと結婚すれば、工場は守られると思っていた。
真弓さんも、工場の存続を約束してくれた。
そんな単純な話しでは無く、関わる人の数だけ、それぞれの事情がある。

経営者でさえ、どうにもならない問題を、素人が何とか出来る訳が無い、と言えばそれまでだが、仕事失うくらいの覚悟がいるどころか、実際に失っている人たちがいる。

俺が出来る事といえば結局、着物を作る事だけ。

どうしたらいい?

阿久津(徒歩で?)弁護士:九谷に聞きに行く

早川邸で思うより時間が掛かったこと、雨も風も力を増し、スムーズに歩く事が難しい。移動に時間が掛かるため、今日弁護士に会えたとして、長話しは出来そうにはないが、最低限子供の居場所を聞き出せればいい。阿久津はやるべきことを頭の中で整理をすると、ズブ濡れになりながら、何とか事務所に辿り着く。
扉の前で濡れた服の水を絞り、ブザーを押してしばらく待つと、若い女性が登場。中に案内されると、こじんまりとしたオフィスの中に、5、6基の机がある。ほか棚に備品など、無機質なオフィス家具で統一された部屋の奥、窓を背に、阿久津を監視する人物がひとりいる。
阿久津は貝塚の親族が、恐らく早川の弁護士のことを、いけ好かない七三分け、と言っていた事を思い出す。
「話は聞いております、用件だけお聞かせ下さい」
阿久津が挨拶するより前、名前など不要と言わんばかりに、男は阿久津に命令した。名前すら名乗らせない相手では、こちらの道理を通すより、用件を済ませられたらそれで良し、と、相手の無礼に、いちいちエネルギーを消費しないよう、阿久津は感情を抑えてみる。
「早川真弓さんを外出禁止にした理由は、こちらで伺うように言われました」
直立したままの阿久津の服から、絞り切れなかった水が、ポタポタと床に滴った。七三分けの弁護士は、机の上に用意されたファイルを開くこと無く返答する。
「ふたりが亡くなったと知った後、ひとりにすれば、真弓さんは自殺しかねない様子でした。彼女は立場上、命を狙われている可能性もあり、自殺を装った殺人を考慮し、早川親族全体で話し合った結果、お嬢様の身の安全のため、外出を制限させて頂きました」
「命を狙われている、と言うのは相続問題のためですか」
「そうです」
弁護士はあっさりと認める。早川が言い難そうにしていたのは、妹が邸内にいたためか? 阿久津は真弓から直接、外出禁止の理由を聞いていないことを思い出す。
「真弓さん自身は、その理由をご存知ですか」
いくら用件だけで済ませたいところでも、真弓さんに教えていいことか悪いことかくらいは、知っておく必要がある。
「どうでしょう? しかし早川の従者とは身辺護衛です。ご自身である程度は判っていることと思われますが、私の方から改めて話はしておりません」
「何故です?」
「早川様から口止めされています」
「理由は?」
「存じません」
なら教えて悪いことだろうが!と、阿久津は自戒によるガス抜きのため、心の中で文句を言う。
「それより、何をコソコソ調べているんです? 早川の従業員や近所で聞き込みをするだけでなく、工場まで出向いて、色々聞かれているそうですが」
弁護士の方は、阿久津に対して、遠慮なく文句を言って来た。
(要するに、弁護士の方で聞きたいことがあったって訳だ。あるいは早川さんの指示なのか)
と阿久津は思考する。
「依頼内容が通常とは違い特殊でしたので、少々下調べをさせて頂きました」
「受諾後も続いているようですが」
(貝塚の方か?)
と阿久津は解釈する。が、そんなことは、知ったこっちゃ無い。
「そうですか? 確かに工場には、先日お邪魔しましたが、井荻さんの衣装について、お伺いしたいことを聞きにお邪魔させて頂いただけです。早川関係者へは、調べに行った記憶はありません」
心の中で舌を出し、しらばっくれる阿久津に、弁護士は少し顔を歪ませた。
「早川では無いが、縁者には会いに行ったんでしょう?」
(やっぱ知ってるのか)
貝塚の親族が会っていた七三分けは、コイツのことだと確信する。つまり久谷が聞きたい話しはコッチ。貝塚のこととして、貝塚と久谷のどちらから連絡したんだろうか?今でも連絡出来るのはなぜか?早川にすれば、一番縁を切りたい相手だろうに。と阿久津は思索する。
「真弓さんから頼まれました。貴方からご主人様とお子様、ふたりとも亡くなっていると聞かされているが、井荻さんとの成婚前に、ご主人様とお子様のお墓があるのなら、出来ればお墓参りをしたいと。それが叶わないなら、せめて花を届けて欲しいと、依頼をされたんです」
「でしたら従者か私が伺います。それに、その程度のことで戸籍まで取る必要は無いでしょうに」
暴風雨の音の中でも、フンと弁護士が鼻を鳴らした音は阿久津に届く。阿久津は阿久津で
(伺うも何も、お前が信じられないから、真弓さんが疑ってんだろーが!)
と、心の中で罵倒する。
もし今日この場に、他の社員や、弁護士が居たなら、コイツはこんな態度をしただろうか? 扉を開けた女性以外に、この部屋には久谷ひとり。女性も別室へ行ったまま、その後戻って来ていない。黒田もそうだが、人間なんて外ヅラを外せば、大抵そんなモンだと、阿久津は自分を棚に上げて、久谷に対して憤る。
「一応確認です。で、ご主人様とお子様の、お墓はあるんですか?」
「ありません」
(この〜!)
間髪を入れない即答に、阿久津は怒りが顔に漏れる。貝塚の親族から、共同墓地に入れたと聞いたが、久谷も知っているのに、嘘を平気で吐きやがる。と心の中から非難する。
「でしたらご存知の、早川真弓さんのご主人とお子様に関する、全ての情報を渡して下さい」
それでも阿久津は、なるべく平静に対応するよう努力した。が
「早川真弓さんは未婚です。お子様もおりません」
との返答に
(てめえさっきまで、ご主人で話し通じてたじゃねーかよ!)
内面的には、子供のケンカ。努力は無駄、と放り捨てる。
「では!貝塚幹夫さんと、彼のお子様に関する情報を開示して下さい」
「何故?」
「真弓さんが外出禁止になった理由の根元に、貝塚さんとの共同生活があります。久谷さんが、そこまで貝塚さんとお子さんが亡くなったと言い切るには、その根拠に、余程自信がおありでしょう。無いなら無いなりの理由があるはずですから、亡くなったと言い切る根拠を、教えて下さいと言っているんです。早川さんと真弓さんから、許可は頂いています」
(これで文句はねーだろ?)
阿久津は、どうだ、と言いたい所を我慢した。
久谷は相変わらず、目の前のファイルを開かず、阿久津に答える。
「真弓さんを屋敷に戻す際、住民票の確認を行い、男と入籍されていないこと、子供の出生届も出されていないことが判明しました。その後、男は死に、子供も間もなく死んだため、墓を作れば証拠が残ります。経歴にわざわざ傷をつける必要はありませんので、そのままにしました」
「!」
久谷の説明に、阿久津は衝撃を受け、今までとは違う意味での怒りが湧く。
「キズ、ですか?」
別の怒りが、阿久津を逆に冷静にする。
「キズですよ。それも完治しない、永遠に残る歴史のキズ。早川の末代まで、戸籍に記載されたまま残るんです」
隠したい事実は記録しない。
「だから墓も必要ないと」
証拠も残さず隠蔽する。
「なにも無かった。で、いいでしょう」
(コイツ…)
綺麗な経歴とは、こうやって作られる。と久谷は言いたいのかも知れない。が、それを望んだのは、真弓さん自身じゃねーだろうが!と、阿久津は上流と呼ばれるやり方が、如何に汚いものかを理解する。
「早川様には、今回のことは、私の方から伝えさせて頂きます。貴方もお嬢様に関わるのは、金輪際お着物に関することのみにされるよう、こんな時間があるのなら、ご自身のためにお使いください」
本っ当に周りくどい言い方をしやがって、と、思うが、それでも阿久津はやはり心で悪態を吐くしか無い。久谷や親族にとっちゃ、ヤクザとの間に出来た子供の記録なんて、闇に葬りたい記録なんだろうが、真弓さんにとっちゃ、自分より大切な物が、この世界に存在した確かな記録。ちゃんと説明出来れば、こんな騒ぎにはならなかっただろうが!と阿久津は思う。
「私は、真弓さんから正式に頼まれて行動しています。確かに依頼本来の着物製作ではありませんが、これも仕事の内。それより久谷さん。貴方こそ、真弓さんから依頼されるべき仕事を、依頼されなかったのは、弁護士として、真弓さんから信頼されていない証拠ではありませんか!」
久谷の顔が、怒りを帯びる。
「…貴方がたが、お嬢様から依頼された仕事は、あえて言うなら警察か興信所に依頼する類いの仕事で、弁護士の仕事ではありません」
下手な屁理屈を捏ねる久谷に
「戸籍取得なら、弁護士でも出来ますよね?」
阿久津は更に指摘。一瞬、雨で外が見えない窓ガラスを背にした久谷は、鬼の形相になったように見えた。
「あ、そうそう。子供は間もなく亡くなったと仰っていましたが、亡くなる際、預けられていた住所をご存知ですよね? そこ、教えて頂けますか?」

久谷は、机上に置いたファイルを乱暴に開くと、メモ用紙にガシガシと文字を書き入れる。机の中で阿久津に一番近い場所に、叩きつけるようにバン!と置く。

「当時、貝塚の子供を預かっていると言っていた人物の住所です」
これでいいだろうと言わんばかりの態度を示す久谷。しかし阿久津は足りない記述を追及する。
「その人物の名前と、現在の住所は? その人から亡くなったと聞いたんですか? 亡くなった後のお骨は確認したんですか?どこに保管されたんです?」
「名前は清永伴春。現住所は不明。亡くなったと聞いたが、未確認のままだ」
「お骨の保管場所は?」
「墓は無いと言っただろう!」
イラつく久谷に阿久津は言う。
「信用していません」
久谷ももう、自分の感情を収めようとはしていない。阿久津へ敵意を剥き出しにする。
「ご主人の墓は無いと、貴方は仰いましたが、地元の共同墓地には、貝塚さんが埋葬された記録がちゃんとありました。真弓さんに、お花をお供えしたと伝えたら、喜んでいましたよ」
阿久津は机のメモに、自分で名前を追加して、カバンに丁寧に仕舞い込む。
「共同墓地など、墓の内に入らない」
阿久津の様子を監視しつつ、久谷は阿久津に言い返す。しかし
「それは貴方の理屈で、真弓さんの判断ではありません。事実を教えたくないのは、何か後ろめたいことでもあるんですか?」
阿久津は久谷の返事を待たず、勝手にドアから退出する。向こうが挨拶無しでも、こちらはキチンと礼儀を通す、なんて大人な対応を、阿久津はする気になれなかった。別に大人と思われたくも無い。欲しいものは手に入れた。
これで子供が見つかってくれたら、阿久津としては、それでいいのだ。

====

(列車の時間に間に合うか?)
ビルの外に阿久津が出ると、中から見るより風雨は大分収まっていた。これなら列車は予定通り発車する。と、阿久津は駅まで急いで行く。普段なら邪魔な台風も、持て余した怒りのパワーを消化する相手に丁度いい。
歩道と道路の境目は消え、流れる水に足をすくわれないよう、ざぶざぶと水路を進行する。ようやく高地の舗装された道路に出る。
駅は目の前。
その時
阿久津はグンっ!と、いきなり引っ張られるような感覚に襲われる。
瞬間、反射的にカバンを両腕で抱える。その先、阿久津が見たものは、片手で阿久津のカバンを持ち、片手でバイクを走らせる、ヘルメット姿の人間である。
「クソ!」
阿久津は負けじと、足を踏ん張り体制を立て直すと、両腕に勢いを付けて、力一杯、身体ごと進行方向の逆へ捻り、ヘルメットの腕を振り解く。するとヘルメットは体制を狂わせて、水しぶきと共に転倒した。
全てが一瞬の出来事である。
周囲の人が、何事が起きたのかと驚いた時、遅れて阿久津も勢いで転倒。すぐさま起き上がり、ヘルメットを追いかける。
しかし
前方から来た車が、阿久津目掛けて突っ込んで来る。
慌てて横に飛び退き、阿久津は難を逃れるが、その隙に、ヘルメットはバイクと共に消えていた。

阿久津は自分の身に何が起きたのか、まだ理解出来ないでいる。ただ
(明らかにカバンが狙われた)
と言うことだけは、身体が引っ張られた時点で気が付いた。
転んだ拍子に、路面に腕を打ち付けたものの、必死に守ったカバンの中身が、無事だったことにホッとする。
(ここには真弓さんの大切な写真と、重要なメモが入っている)

目撃者たちが騒つく中。親切な人が阿久津に声掛けをする。
「大丈夫か?」
阿久津が茫然としながら大丈夫だと答えると、他の見物人も、やれ警察だ、やれ病院だ、などの色々な世話を焼き始めた。その傍ら、目撃者たちの話しによると、阿久津は後ろから走って来たバイクに、カバンを引ったくられたのだと。その勢いで車道へ放り出されて、車に引かれそうになった、ということである。つまり
(引ったくりか?)
と言う説が、犯行の原因として有力な中、阿久津は、その説を素直に受け入れられないでいる。
(いや、ただの金品目当ての引ったくりで、成人男性を狙うとは思い難い。
無差別の引ったくりなら、通常狙うのは老人や女性、子供など。言っちゃ悪いが、荷物から直ぐに手を離しそうな、見るからに弱そうな人だろう。しかもこの天候で、裏面状況が悪い中を?)
阿久津は考えるほど、確信する。
(どう考えても、目的のある犯行。恐らくカバンの中身が狙われた。もしくは、引ったくりに見せかけて、車道に引っ張られた可能性もある。何故なら、車が来たタイミングが、余りにも事故を装うのに都合がいい)
声掛けをしてくれた人が、警察を呼んだから、しばらく待つようにと、阿久津に伝える。周囲の人の優しい気持ちが、大変有難く身に染みる。が、阿久津は今、やることがある。阿久津は立ち上がり、その場に居るみんなに感謝する。その上で、待つように、との申し出を丁寧に断り、その理由に、急ぎの用事がある旨を伝えて、駅の構内へ飛び込んだ。
(バイクのナンバーなんて、水しぶきで見ていないし、車のナンバーも然り。かろうじてバイクの種類は覚えているが、聞き取りに時間を取られても、迷宮入りになるだけか)
今の阿久津は、被害届けの製作よりも、列車の発車時刻が心配だった。
にも関わらず顔は自然と、笑えて来て仕様がない。
(カバンの中身を知っている。または重要だと考える人物は、ごく少数。限られている。もし、引ったくりの黒幕が俺の予想通りでも、ただの未遂。揉み消されるか、まともに取り合われることはないだろう)
ここまでするのは、よっぽど知られたく無い事実が先にあるとしか、阿久津は考えられなかった。すなわち、子供は生きている。またはその可能性があると言うこと。
(本気なのか、警告なのかは知ら無いが、やってくれるじゃねぇか!)
ある意味、敵から塩を送られたことで、阿久津は俄然やる気が出た。

(絶対に見つけ出してやる)

無事列車に間に合い、乗り込んで尚、阿久津は気味悪くニヤけている。捜索は、スーツへの仕返しよりも、遥かにやり甲斐のある重要任務へ、阿久津の中で昇格した。

A:出張捜査決定→
療養所と真弓が住んでいた場所+無縁仏の墓、九谷から聞き出した手紙の住所+子供の預け先(写真を持って)へGO

惺(大家)に電話が掛かって来る

惺は答えの出ないまま、近所の風呂屋に辿り着く。小降りになった雲の切れ間に、遠く星が光っている。
「あ」
井荻が言った嘘について理由を聞くのを忘れたことを思い出す。
しかし工場には電話は掛けられない。自宅の番号も教えてくれない。
電話帳に記載はあるかもしれなが、教えてくれないものを架けてもなぁ、どうしようかなぁ

惺の帰りが遅い日は、高貴は大家さん宅にて、惺が戻るまで待てる約束になっている。
大家さんは初老の、ひとり暮らしの女性である。旦那さんを10年前に亡くしてから、ひとりでアパートを切り盛りするゆえ、時間にゆとりと自由がある。それゆえ、何かと高貴の面倒を見てくれる、非常に有難いお方である。と言っても、高貴を預ける際はタダじゃない。ちゃんと時給を支払っている。
大家さん宅に電話して、高貴に風呂屋まで着替えを持って来てくれるよう言付けすると、大家さん曰く、夕飯を用意してあるから、ふたりで帰りに寄るように、とのことである。
すでに秋、卓上コンロに鍋焼きうどん。かき揚げ入りの豪華仕様に、上手いと高貴は喜んだ。勿論、惺も勧められるが、既に定食屋で食べて来たので、残念ながら遠慮する。

「そうそう、惺さん。多分アンタ宛てに電話が来たよ。居ないと言ったら切れちゃったけど」
「多分?」
「阿久津さんならすぐ分かるけど、名前名乗らないで切っちゃったから、わかんないのよ」
大家さんの部屋にはテレビもある。相変わらず、高貴は黙々とうどんを食べつつ、テレビに釘付けになっている。大家さんが炊事をしていて見逃した部分を高貴に聞くと、高貴はきっちりと説明をする。そこまで来ると、ある意味才能じゃないか?と、惺は時々感心する。
すると電話の呼び鈴が鳴る。
大家さんが出るが、再び惺宛てらしく、送話部を右手で塞ぐと、受話器を惺に差し出した。
「誰?」
惺は怪訝な顔で、先に名前を確認してくれるよう言う。しかし大家さんは、見るからに嫌そうな顔で、首を横に振り、フン!フン!と、両腕を伸び縮みさせて、受話器を惺に渡そうとする。仕方なく惺が、受話器を受け取る。
「もしもし」
「アンタ、着物屋さん?」
聞き覚えのない声だった。中年男性と思われる陰気な音。
「どちら様ですか?」
声が男性に変わったためか、惺がまだ自分が着物屋だと認める前に、名無しの権兵衛は話し始める。
「アンタ達にひと言、言いたくて。
阿久津さんやアンタ、工場を助けるために仕事引き受けくれたんだろ? でも、もういいんだ。工場では、親会社の連中や向坂が居たから、何も言えなかったけど、アンタももう手を引いた方がいい!」
これは警告か、アドバイスか、と惺は頭を悩ませた。どちらにしろ、今日、工場に居た人物か、惺が工場に来たことを知っている人物である。
「あの」
惺が話し掛けると、相手は惺に話しをさせない。
「井荻さんは悪くない。ご両親には本当に世話になったし、お兄さんも立派な人だった。工場の皆は判ってるんだ。でもそれでもダメなんだよ。どんなに頑張ったって。知ってるよ。あんた、着物作らないと工場が潰れるって聞いたんだろ? でもそんなのはデタラメだ。着物を作ろうが作るまいが、あいつら、初めっから工場を潰す気だったんだ」
「あなた誰です? あいつらって誰なんですか」
ブーッと、催促音が聞こえた。公衆電話からである。
「最初から仕組まれていたんだ。だから着物は作んなくていい。作れなくてもいいから、だから悪い事は言わない。何かあってからじゃ遅い。あんたも阿久津さんも、早く工場から手を引いた方がいい!」
ガチャン、と、そこで電話が切られた。左耳にツー、ツー、と、切断音が聞こえている。
「何?」
通話を終えても、受話器を片手に動かない惺を、高貴と大家さんが、不安気に伺う。惺は後ろを振り返り、ふたりの表情に気が付くと、言葉で答えず首を傾げた。さっぱりわからない、と言うのが、惺の素直な感想である。今の話しの内容から、相手を想定するなら、恐らく工場関係者で、阿久津の知り合いであること。阿久津は以前、工員の何人かに、ここの電話番号を渡したと言っていた。惺は頭の中で、今の話しを整理する。
(工場はどうしても潰される。何かあった後じゃ遅いと言うのは、良い風に取ればアドバイス。悪い方に取れば脅迫。どちらにしろ、このまま手を引かなければ、何かある、と言うことか)
井荻の話は、向坂を何とかしようと言う以前に、諦めが強いように惺には見えた。その理由が、早川が買収するまで、自身は何も出来ないから、と言うことでなく、他にどうしようもない理由があり、買収すら既に無意味なのだと悟ったから、なのだとしたら?
(早川さんや真弓さんの手が届かないところで、工場は潰される方向へ動いている。と言うことなんだろうか?)
火を止めた鍋の中、汁の中の具は無くなっている。冷やご飯でも入れるかと、大家さんは気を効かせるが、惺はその心遣いも有難く断った。
(もしその仮定が間違いだとしても、ただの雇われ職人に、工場の存亡など手に負える訳が無い。だが、真弓さんに約束をさせた以上、自分がこの件を反古にすることは出来ない。何よりこのまま工場を見捨てる訳には…)
「いかない、よな」
思わず、考えていることが声に出る。その声に気が付き、珍しく大真面目な顔をした惺に、高貴はどうしたのかと凝視した。
「すみません、電話帳取って来ます。このまま電話借りますね」
惺の考えごとに、どうやら答えが出たらしい。高貴は惺に道を作るため、体を端に傾ける。
「そう言えば惺さん。あんた今月の電話代、覚悟しときなよ」
「い!」
大家さんの、目が覚めるような鉄槌に、惺はショックの色を隠せない。が、その件に関しては、製作報酬を当てにする。いそいそと電話帳を持って戻ると、大家さんと高貴は、連続ドラマを凝視する。高貴は話しの途中からでも、特に問題無いらしい。
惺は再び黒電話を占領すると、ダイヤルを人差し指で、ジーコロ、ジーコロと7回まわす。発信音は3回を待たずに繋がった。
「はい黒田です。ってなんだよ、惺か! めずらしいな~、お前から架けて来るなんて」
ご機嫌な黒田とは逆に、惺は黒田のことが苦手である。
「そういや、この前の紋入れ、まだやってもらってないぞ? あと篠宮さんののれん、色違いでもう一枚追加な。 それとなー、先生に是非会いたいって人がいるんだけど、俺じゃ全然ダメでさ~。お前から先生に口きいてくんない?」
阿久津と組む前、惺は黒田に言い包められて、散々利用されて来た。それゆえ、惺から黒田に直接連絡することは、近年ではほぼ皆無である。いつもこの調子でタダ働きを要請し、惺は大抵カモられる。
「それ全部、阿久津を通してからにしろよな?」
だが
「え、なんで阿久津? 俺たち友達じゃん!」
との黒田の言葉に
(コイツ、全然変わって無い…)
と、惺は始めから降参する。受話器の向こうから聞こえるのは、調子の良い笑い声。惺は過去利用された、数々の出来事を思い出す。
「お前、本当に法律家か? 公正取引委員会に訴えるぞ」
しかも本人は全く悪気が無い。
「あははは、そんなカタいこと言うなよ~冷たいなぁ」
タチが悪いにも程がある。と、惺はいつも思う。黒田の方が圧倒的に惺に借りがある筈なのに、何故か惺は勝てないのだ。しかし
「で、なに? 俺に用事があるんだろ」
電話を架けた以上、惺は腹を括って、黒田に相談を持ち掛ける。
「別件で頼みがある」

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